2012年8月21日火曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その2)のはずが・・・

いや、留学の最後は心置きなく完全フリーの時間を過ごすつもりだったのに、なんか職場への正式復帰日以前から、というよりは帰国翌日から(=家すらなくそれを探し出す日から)なし崩し的に仕事やその他の雑務が入ってきていて、それのことや、復帰前に処理すべき諸々の事項に関連する雑務を処理しているうちにこんな時間(今はドバイ時間の2時前)になってしまいました。

一体何やねん、と嘆きたくなりますが…。

ほんとはいろいろと今日の出来事や雑感を書きたかったのですが、時間も時間なので、概略を書いておきます。

朝起床。朝食をとる。
11時頃、ブルジュ・カリファの横のショッピング・モールに行ってみる。噂にたがわずでかいし、世界のブランドは一通りそろっている。

15時前に戻り、メールを見てブルーに。

15時半頃、食事もしていなかったので、なんちゃらクラブのアフタヌーンティーを食べる。でも、次の予定までの時間が短く、まさにgrabという言葉が似合う優雅さのなさ。

16時半、砂漠サファリツアーに出発。トヨタのランドクルーザーが大活躍!いや、その過酷なオフロードツーリングは中途半端なジェットコースターよりも面白い。食事も悪くなく、ベリーダンスのおねーちゃんの豊満だけど鍛えぬいたお腹にセクシーさよりもむしろ男前を感じる。砂漠で見る満点の星は申し分なし。久しぶりに見た天の川。ちゃんと視認できた南斗六星。夏の大三角が天頂に輝き、アラビア語由来の星の名前をアラブで見るという小粋さにちょっとうっとり。

22時ホテル戻り。ロンドンで買って砂漠サファリに履いていってしまった新品のスエードの靴に油染みを発見、小鴨に怒られまくる。それでも「俺の金で買うたんじゃ」と逆切れしつつ(でも心で半泣きになりつつ)やけくそででかいバスタブに湯を張って入浴。FTを読み始めるも、先に手をぬらしてしまっていたがために新聞がぶよぶよになる。

入浴後、コーヒーを飲みながらメールベースでの各種雑務を処理。現在に至る。

今日はこのくらいにしておきますが、最後に一言。
砂漠からの帰り、ドバイの街並みが近づいてくると、その高層ビル群は、本当に砂漠に立ち上る蜃気楼のようで、幻想的ですらありました。
でも、こういった繁栄は、もしかしたら本当に蜃気楼のようなものなのではないか、仮に30年後にここを立ち寄ってもまだこのような繁栄を謳歌し続けているのだろうか、と思わずにはいられませんでした。
いや、それはドバイに限った話ではないのですが、急速な発展というのは、どこかもろさのようなものを感じずにはいられないのです。それは、単なる嫉妬なのでしょうか、それとも本質なのでしょうか?

うーん、眠い、寝るぞ!

2012年8月20日月曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その1)

ちょうど24時間前、僕らはロンドンを後にしました。
ヒースローでは、エミレーツ航空の今まで経験したことがないほどの手荷物重量の厳しさにやられてしまい、空港で更に荷物を捨てたり、見送りに来てくれたE嬢夫妻にあげたりと大騒ぎだったのですが、とにもかくにもドバイ行きEK004便に乗り込みました。

EK004便はかの総二階建てのエアバスA380。でも、機内はいくつかの区画(Zone)に分かれていて、1つのZone自体はそんなに大きい印象を与えないのですが、それでも、飛行機が加速を始めて離陸をする時のゆったりした感じ(というか「よっこらしょ」という感じは、ここ2年ヨーロッパでの移動でお世話になっていたエアバスの短通路型の飛行機の必死にギュイ~ンと上昇する感覚とは全く違います。たまにゃこんな飛行機も悪くないな、と思ったわけです。

でも、機内では、なぜか寝ることが出来ず、そうだな、1時間半ほどうとうとしたくらいかな。
飛行機は、ロンドン→パリの北→ブリュッセル→プラハの近く→アナトリア半島→バグダッド→バスラと飛び、朝の6時半、ドバイに到着。7時間弱のフライトなので、ちょうど日本からシンガポールに行く距離のようなものです。そう考えればイギリスと中東、かなり近いですよね。意外とびっくり。

===

さて、今回ドバイに寄ったのは、たまたま日本に買える片道切符が一番安かったのがドバイ経由のエミレーツ便だったことに加え、ただ乗換えだけじゃ面白くないのでストップオーバーをしてみようという、全くの偶然の産物です。それでも、留学の最後はちょっとゴージャスに決めようと思い、思い切って5つ星のホテルを取りました(ま、ドバイにゃ7つ星もありますけどね。ちなみに、その宿泊代を今回の飛行機の料金にプラスしても、ロンドン―東京直行便片道二人分の料金よりも安かったはず。)。その名もラッフルズ・ドバイ。シンガポール・スリングで有名なシンガポールのあのホテルのドバイ支店です。
以前シンガポールに行った時、ラッフルズ(のおみやげ物屋)に寄ったのですが、その風格を目の当たりにして、「いつかはこのホテルに見合う自分になりたい」と思ったものでした。もちろん経済力も含めてね。
それから数年。決してそのような風格に見合うだけの自分になったとはいえないのですが、英国での生活を経て、また、物理的にも少し齢を取り、加えて、シンガポールのそれよりも宿泊料金が安かったこともあり、一度このホテルに泊まってみよう、ということにしたわけです。で、予約は、僕が論文やら試験やらでばたばたしたこともあり、小鴨が手配しました(もちろん料金については僕の決裁事項でね。)。

…で、僕らがグランド・フロアに入ると、どうも小鴨が手配したそれはなんちゃらクラブとかいうエグゼクティブ向けのものだったらしく、丁重に10階に通されると、寝不足で疲れた顔をしている二人にはそれはそれは丁寧なチェックイン手続+専従のバトラーによる部屋の説明がありました。ヨーロッパでは、B&B的旅行をし続けてきた我々にとってはややお尻がむずがゆくなるような丁寧さと快適さではありましたが、こういう雰囲気の場数を踏むこともまた人生において必要だ、なんてことを言い合う貧乏性の二人なのでした。
それでも、英語が少しは出来るようになった甲斐は、こういった場所でも感じることができます。というのも、相手の英語での応対にこちらもそれなりに自然なコミュニケーションができるという「安心感」が、こういうハイソなシチュエーションでも決して怖気づかない度胸のようなものを与えてくれたような気がするから。

でもね、ホテルも含め「高級」であるってのは、案外不自由だな、って思いました。それは、こんな話。

夕方外出して夕食を食べようと思い、1階のコンシェルジュに「どこかいい店はないか」と聞いたのです。これは、僕らがヨーロッパで得た経験の1つで、宿の人に近所の安くてうまい店を聞くと、彼らが紹介するそれらは余り間違いがなかったのです。というわけで、そうすることが習慣になっていたのです。
果たして、ラッフルズのコンシェルジュはいろいろと店の名前を挙げてくれたのですが、いずれも高級感+いい雰囲気の店ばっかりで、僕らが求めているような店ではありません。なので、僕は、「僕らが一番重要なのは味であって、雰囲気や高級感はあまり重要視していない。そういったレストランでお勧めのところはないか」と聞いたら、コンシェルジュのガブリエルさん(おそらく本名はジブリールさんなんでしょうね。)は困った表情を浮かべ、

「当ホテルは5つ星ホテルでございますので、お客様にご紹介するべきレストランも相応のものとならざるを得ないのです」

なんてことを言うのです。ほんとはガブさんにだって自分のお気に入りの店とか絶対あるはずなのに。ま、こんなリクエストをする客などはまずいないかもしれないのだけど。

で、結局ガブさんが勧めてくれたある別の5つ星ホテルの最上階っぽいところにあるレストランに行ったのですが、そのホテル自体上海にもあるアメリカ系ホテルチェーンで、レストランの雰囲気は上海のそのホテルの56階か何かにあるイタリア料理屋のような雰囲気と変わりません。加えて食事はブッフェスタイル。味は決してまずいわけではないのですが、僕らが今までヨーロッパ旅行で経験した「感動」からははるかに遠いものでした。うん、これならどこでもあるよね、って。

ちなみに、そのホテルには、ラッフルズのベルボーイが手配してくれたハイヤー(メータータクシーじゃないんですよ!)で向かうという、日本でもしたことがない贅沢さ。これも貧乏性の二人にはお尻がむず痒くなる所業ですが、まあ、今回くらいバブリーでもいいじゃんと互いを慰めます。でも、この運ちゃん自体はなかなか気さくな人で、そのホテルの近くにある市場を指してこんなことを言ったのです。

「これは魚市場だよ。カタール辺りからのお客にどこかうまいところはないか、と聞かれたら、俺はよくここを紹介してるよ。ここでは魚を買ってどう料理するかを指示して食べることができるんだ♪」

とのたまうではありませんか! 運ちゃんも英語がやや怪しいので、僕らの質問の趣旨を聞き間違えているかもしれないのですが、もし運ちゃんの言うことが正しければ、我々の求めているものはむしろそういうものであったわけで…。

で、(コストパフォーマンスを含めて)不満の残る夕食を終えてその周りの下町っぽいところをふらふらした後ホテルに帰ったのですが、タクシーがなかなか捕まらなかったこともあり、最近出来たばっかりでピカピカの、でも客がいなくておそらく赤字必至の(でもそんなのこの国では関係ないんでしょうね。)地下鉄に乗りホテルに戻りました。でも、この種のホテルに泊まる客なんてそもそも公共交通機関など使わないんでしょう。そういえば、チェックインのときも、「そういえばこの近くにも鉄道の駅がありますよね。それで行けば安くなるんじゃないですか?」と僕が言ったら応対していたホテルの人が「あんた、そんなのに乗るの?」って感じでびっくりしたような顔をして、「乗り換えなどもあったりして面倒なので、タクシーの方が便利ですよ。」と言ったのが印象的でした。ともあれ、全身に汗かいてホテルに戻ってくると、クーラーがしっかり効いたロビーではみんな涼しげな顔で歓談しています。豪華かつ居心地のよい部屋に戻ると、ふんだんに使い放題の真水のホットシャワーで汗を流し…。

今日に限って言えば、ドバイの印象は、どこか「伸び行く中国の最先端都市」を髣髴とさせるようなものでした。そしてふと思わずにはいられなかったこと。


「豊かさ」とは何だろう?

…この都市であと48時間ほど考えてみようと思います。

2012年8月19日日曜日

ロンドン最後の夜

ほんと、ものすごく間隔が空いてしまいました。
この間何をしていたかを要約すると、
・5月の末に試験が終わった。
・6月の初旬にスペイン(バルセロナ&グラナダ)に1週間ほど旅行し、ガウディの建築群とアルハンブラ宮殿とすばらしきスペイン料理に感動。
・スペインから戻ってきてからは論文をひたすら書き続ける。当初はメインでない論点でもたつきまくり、その後も遅々として進まない状態が続き、7月頭で3500語/15000語。その後もとにかく調べて書いてを繰り返し、昼と夜とが逆転しながら7月26日にとりあえず形を作る。但し2000語オーバー。その後は削除しながら推敲を繰り返すが、直せども直せども誤りが見つかり半狂乱に。
・論文の一方で、とある新しい言語の学習を始めたが、論文が忙しくなりすぎて1か月でギブアップ(これはこれからの継続案件となります。)。
・8月2日に論文提出を予定し、かつ、一応の形が出来上がったように見受けられたものの、今一度形式面のチェックをする必要があると思い、もともと予定していた8月3日から8日までのローマ・リスボン旅行に論文も連れて行く。結局、昼は観光、夜は論文推敲となったのだが、貫徹1回、超深夜帯睡眠複数回と、仕事顔負けの状態に。それでも出てくるわ出てくるわのミステイク。
・ヘロヘロになりながら8日にロンドン戻り。その夜も4時頃まで格闘。翌朝もまだ基本的な部分でのミステイクが発見されたりしながらも、とりあえず全部見たということで製本→押し付けるようにして提出。
・提出したその足でグリニッジに行って、オリンピック馬術のドレッサージュ決勝を観戦。すっかり腕を日焼けする。
・翌10日は、ロンドンにやってきた職場の同僚とカーディフにフットボール男子3位決定戦を観戦。君が代を心を込めて歌い応援に臨んだものの見事な敗戦。周囲にはこれだけのために日本からやってきたマジもののサポーターたちがいて、「日本代表のために命を賭けている人たち」が本当にいることを改めて確認した。弾丸ツアーだったので、ロンドンには深夜2時戻り。
・11日からはスイスのE嬢夫妻が我々の見送りのために来英。続けて12日には台湾のC嬢夫妻(新婚旅行!)が来英。以後、6人が一つ屋根の下すごすことに。
・そうは言っても引越しの準備をしなければならず、こちらもあたふた。
・そのくせ2度目のオペラ座の怪人などを見てしまったりする。
・そのくせ15-16日、みんなでボーンマスに行って語学学校の先生やスタッフと会ったりして、その上1泊したりする。
・17日にフラットをクリーニング業者に明け渡し、我々はリッチモンドのフラットに移動。リンゴの木のある庭の風情は申し分ないが、前日寝冷えした僕は激しい下痢に悩まされる。
・18日、元のフラットを正式にチェックアウト。お世話になった日本人の美容師のところで最後のヘアカットをし、リッチモンドに戻ってみんなで夕食をして今に至る。

うーん、こう並べてみても本当にいろいろなことがありました。でも、やることが多すぎてブログを書く気力がなかったのでした(まあ、フェイスブックには時折書き込んでいましたけどね。)。

でも、2年の留学も、これが本当に最後の夜となりました。
明日の夕方、僕たちはロンドンを発ち、ドバイでストップオーバーして、23日に成田着です。

最後の1週間は、E嬢・C嬢夫妻と一緒でなかなかしみじみとロンドンの最後を味わう時間はありません(今もありません)が、それでも、今日は精一杯最後のロンドンを目に焼き付けようと、美容院からリッチモンドに戻る途中、ホルボーンで下車して大学の辺りなどを少しふらつきました。確かに自分はこのロンドンの街に足跡を残したのだと、自らの足元を確かめつつ。

それにしても、この2年間の留学は、僕たちにとても大きいものを残してくれたように思います。
もう、それは「体で感じるもの」であって、なかなか言葉では言い尽くせません。
ただ1つ言えることは、今がイギリスからアジアに戻るちょうどよい潮時だということ。そうでなければ、ロンドンを本当に離れたくなくなってしまいそうで。

来る前のイギリスに対する僕のイメージは、「老いた大国」で、大英帝国の遺産を食い潰しつづけている国、というものでした。そして、それはある一面では正しいとも今でも思います。
でも、イギリスはそれと同時に、「常に新しいものを生み出そうとする、ビート感のある国」であるということも感じずにはいられません。特にロンドンは。この国、意外に(?)クリエイティブなのです。そういったイギリスの奥深さに魅力を感じずにはいられない生活でした。

そして、自分の生き方についても、いろいろ考えることも多かったかな。そして、得られた結論は、「やっぱり僕には『攻める人生』しかないのだろうな」ということでした。40も近くなれば、人間往々にして守りに入るのが普通ですし、僕自身も今回の留学までが自分の人生の「インプット期間」であって、後は自分のある環境の中でそれを守る人生を送るべきだと考えていました。

…でも、それは、僕には当てはまらなかったようです。

どうも、この留学は、何かの終わりではなく、これからの始まりのための出発点(ないしは準備作業)のようなものだったようでした。
これからも僕は、やっぱり自分の可能性を求めてただただ積極果敢に攻めていけるだけ攻めるしかないようです。これに関しては、決して楽な人生ではないだろうな、と思いつつも、それしか道がないのだと、もう覚悟は決めました。

ずっと間隔が空いた分、思ったことの3割も書けていませんが、それでもかなりの長文になってしまいました。
明日の朝は荷物を再整理して、空港に行って、友人たちと別れを交わすことになります。

ロンドン最後の夜。
横で既に眠りに落ちている小鴨の顔を見ながら、改めてこの留学の成功を、ささやかに、でも、確信を持ってここに宣言いたしましょう。

ありがとう、イギリス。
また会おう、ロンドン。

2012年5月20日日曜日

火の人間、水への憧憬

またまたすっかり間隔が空いてしまいました。
10日に2つ目の試験を終えて、残すは30日の最後の試験。で、今は絶賛準備中…なのですが、今回の3つの試験は三者三様で勉強の方針が違うのがいやらしいったらありゃしません。ま、1つ1つの違いを具体的にお話しても面白くないので省略しますが、次のやつに限って言えば、「教科書やハンドアウトをそのまま覚えても試験問題に答えることはおよそ不可能」と言ってよいと思います。
で、やるべき対策としては、それぞれのトピックに対して自分自身で(ないしは授業中に先生が話した)問題意識を設定した上でそれに沿ったトピックの分析を行っていく、という形にならざるを得ないと思うのですが、この作業、それ自体は「研究している感覚」があってつまらなくはないのですが、さりとて決して楽じゃあありません。ま、1か月とか2か月それにかかりきりになれるのならばまだしも、非常に幅の広いトピックを1つ1つじっくり検討するとなれば、20日ではとても足りないわけで、まあ、またいくつかに絞らざるを得ないのでしょうね。

つまらん試験の話はここまでにして。

僕は性格的に結構熱くなりやすい(それは、熱中するということでもありますし、すぐかっとなってしまうということでもあります。)のですが、いわゆる五行説とやらに則したなんちゃら占いによれば、果たして僕は「火」の人間なのだそう。

この限りでは、僕もうん、なるほどなるほど、と思ってしまうわけです。

で、この「火」の人間の相性、についても説明してくれるのがこの種の占いの定番、というわけで、それによれば、「火」は「木」と相性がよく(ま、火は木を燃やすからなのでしょう)、逆に「水」とは相性最悪なのだそうです。なんでも、水は、火を消してしまうからなのだそうで。

でもね、僕は水のある風景、好きなんですよ。特に海。
水を見ていると心がとても落ち着いて、癒される気分になるんです。
ほら、このブログでも、背景は海にしているでしょ。これ、モルディブに新婚旅行に行ったときに取った写真なんです。僕にとって忘れられない海の風景の1つ。

…ま、こんなことは誰だって同じかもしれませんし、僕の海への思いは、子供の頃海のない群馬県で育ったことも影響しているのかもしれません。でも、まあ、それはひとまず措くとして、この事実を占いベースで説明しようとすれば、次のようになるのかなぁ。

・火であっても、燃え続けることは楽じゃない。
・なので、余りに火がかんかんに燃え盛らないように、火をコントロールする必要もたまにはある。
・それに最適なものは、水である。

僕は占い師じゃないけど、まあ、占いってなものは、何とでも説明できるもんだなあ、と思うわけです。
でも、面白いことに、僕自身が好きな水、ってのは、決して鏡のように静まり返ったものじゃなくて、例えば太陽の光が波頭に反射しているような海(ああ、昔見た伊予灘が懐かしい!)とか、どこか「火」の要素が感じられるもの。こういったことも、占い的にはそれなりの合理性があるのかもしれませんね。

いずれにせよ、自分のキャラクターを考えるに、自分の熱い要素そのままに突っ走っちゃったら確かに際限なくなりそうな怖さも感じるので、どこかそれを本能的に抑えようとしているのかもしれません。そして、その「仮説」は、僕が今までいかなる局面においても自分の(本当の)100%を出しきったということはないという感覚に符合するな、と感じた次第。

===

そうそう、このなんちゃら占いによれば、小鴨は「水」の人間なのだそうです。ちなみに星座はみずがめ座なので、それはもう、コテコテの水人間(やっぱり小鴨だけに水鳥?)ということになりそうです。
とすれば、僕との相性は最悪なのだということになるのですが、上記のロジックを使うことによって、(自分自身をかんかんに燃え盛る火であるとした上で)まあ、「ちょうどいいんじゃない?」と善解することといたしましょう。当たるも八卦、当たらぬも八卦。

2012年4月28日土曜日

トイレのMimakiさん~クルマが欲しい!

最初の試験まであと1週間となりました。
でも、最初の試験のための「武器」作りが昨日ようやく終わったところ。昨日・今日と2番目の試験のための「武器」作り(間に合うか?)をしてから、残りの5日で最初の試験のための「演習」をするという綱渡りスケジュールです。

僕は昔から自分用のノートを作って知識を一元化しないと気がすまないたちで、今回もそれをやっているのですが、今回がいつもと違うのが、「英語の文献を理解し、英語でノートを作ること」。これがもう、日本語でやるのと比べて時間のかかることといったらありません。おかげでここ数日睡眠時間が4、5時間という、仕事がテンパって時と同じような状況が続き、夕べも寝たのは結局朝の6時…。大したことやっていないのにもかかわらず。

加えて最近トイレ(トイレといっても、いわゆるbathroomで、うちの場合は更に洗濯機や乾燥機も一緒にあり、日本で言えば六畳間くらいの広さがあります。)に机を持ち込んでそこに引きこもっているので(僕は何かに集中する場合には狭いところにいるのが好きなのです。)、睡眠と食事以外はそこから出て行く必要がなくなっているわけで、ほんと、体に悪いったらありゃしません。なので、昨日、事実上1週間ぶりに中華街に出て飲茶を食べたときの気分の晴れやかなことといったら!
トイレの住人、実際のところはそうは言っても天窓もあり、とても明るい環境で結構満足しているものの、さすがに勉強のハードさも相まって今日もまだ放心状態。でもやばさは刻一刻とつのり、ああ、今日も余り寝られないんだろうな、と開き直ってこのブログを書いています。

===
帰国が次第に現実味を帯びてくるようになるにつれ(あと4か月を切った!)、今回の帰国が7年ぶりの日本居住を意味することになることもあり、あれがいるな、これがいるな、なんてことを現実逃避の友とすることが多くなってきました。で、そんな中で最近特に思うのが、「あー、クルマ欲しい」ってこと。

ええ、ワタクシ、いままでクルマなるものを買ったことがないのです。いとこにモータージャーナリストがいるにもかかわらず(って、それは関係ないか。)。大学生までは実家住まいだったし、就職してからは(特に都心は駐車場代etcが高いこともあり)必要性を感じなかったし、海外住まいもそれなりに長くやってきたしで、なかなか買うというモチベーションが生じなかったからです。

そんな僕がなぜ、急に、今なのか…。自分でもこの心境の変化がわかりません。
でも、1ついえることは、件のいとこが上海モーターショーの取材に来た時に、彼のライター仲間数人と一緒に火鍋を食べたことがあったのですが、その時に小鴨があるライターに「何でクルマが好きなんですか」と尋ねたら、その方が「どこか行きたい時にいつでも行けるからかなぁ」って答えていたのが今でも耳に残ってるってことかな。そういった感覚って、僕にはとても新鮮だったから。

考えてみれば、それまで僕にとっては、自動車は「もともとは親が運転するもの」であり、「(子供の頃は)乗れば確実に酔うもの」であり、「電車でいけないところに行くための交通手段」であり、「本体も、そして維持費も高くつくもの=都心で住む分には経済的合理性は全くない代物」でしかなったわけですが、このライター軍団は、そんな僕の既存の認識とは全く違う次元でクルマを見ていて、それは確かに自動車をカルチャーとして捉えている人たちでした。

なので、僕がクルマが欲しい、と思っているのは、自動車文化という、新たな次元を覗いてみたいという好奇心なのかもしれません。

で、そういうアプローチ(と留学で疲弊している僕の懐具合)から欲しいクルマを考えて行くと、動かして楽しいクルマかつどこかに強い個性を持っているクルマで、手の届きやすいものとなるのは半ば必然の流れ。でも、その一方で、親を乗せての長距離移動の可能性もあるわけで、例えばクーペのようなものは買うわけにはいかない(少なくとも大人4人の長距離移動に十分堪えうるスペースがあること)という制約もあり、ここは思案のしどころです。

僕自身には既にいくつかの候補があるのですが…どうなることか?!

===

そのほか、日本に帰ったらやりたいこと、っていうのはたくさんあるのですが(まあ、仕事のためにそのほとんどが実現できないおそれもあるのですが)、今日ふと思ったのは、「船舶免許取りたい」ということでした。
…これこそ、無駄の最たるものなのかもしれませんけど。

2012年4月12日木曜日

情報の対価

イギリスの新聞というのは、ご存知の方も多いと思いますし、ずっと昔にブログでも触れたことがあるように思いますが、高級紙(broadsheet)と大衆紙(tabloid)に分かれていて、特に高級紙の場合だと思うのですが、何を読んでいるかでその人の政治志向まで分かってしまいかねない代物です。一方、大衆紙は、使っている言葉もかなり砕けていて外国人にはすぐには分かりにくいし、ナイスバディなおねえちゃんのヌード写真があったりするので(まあ、おはようサンスポなどは、ここらあたりにヒントを得ているんでしょうね。)、それはそれで「愛読紙」というのにはやや気が引けてしまいます。

で、ロンドンの一般市民は普段何を読んでいるのか、と言えば、僕が認識する限りでは、おそらく駅で手に入るフリーペーパー。普通の生活をするのに十分な情報が一通りそろっているので、敢えてお金を出して新聞を買う必要もない、ということなのかな。まあ、職場とかでは高級紙を読んでいるのかもしれませんけどね。

ただ、フリペは所詮フリペ。あまり仕事に関係するような内容はありませんし、何よりもタダな分、みんなの取扱いも非常に雑です。というわけで、ラッシュアワーが終わった後の地下鉄がフリペの山ということもよく見られる光景で、地下鉄側も「アナタが読んでいるその新聞はゴミです」なんていう啓発広告を出さねばならなくなるわけです。

かく言う僕は、ロンドンに来てからの愛読紙をフィナンシャル・タイムズ(FT)にしています。ボーンマス時代は比較的中立に近いインディペンダントを読んでいたのですが、僕が欲しい経済情報となると、やっぱりFTにかなりのアドバンテージがあることが分かり、乗り換えました。
でも、FTはとにかく高い!普通の高級紙が1ポンドであるのに対して、2.5ポンド!ちょっと前までは2.3ポンドだったのがしれっと値上がりしてこの値段です。

そうなると、(本当は毎日読みたいし、そうあるべきなのでしょうが、)学生身分ではやっぱり買うのに二の足を踏んでしまいがちになって、週1ペースとかになってしまっていましたが、最近、僕の仕事のフィールドにかかわるいろいろな動きが激しいことから、ほぼ毎日買うようになっています。

結局、自分の欲しい情報は、カネを出して買いなさい、ってことなんでしょうね。

それにしても、大分英語を読むのに慣れてきたからなのでしょうか、FTの記事は本当に興味深く読まされるものが少なくありません。日本の新聞が(いろんな事情からか?)載せないような記事まで深い分析がなされていたりすることもあり、情報の対価としての2.5ポンドは、それはそれで概ね妥当なんじゃないかな、と思うわけです。

さあ、そうなると湧き出てくるのが「日本に帰っても読みたいなぁ」という願望。僕のオフィスでも取っているのですが、個人でも取ろうかと検討中です。で、調べたところ、年間購読料約10万円!!

情報の対価は、決して安くないことは分かるものの…、ねぇ。

2012年3月31日土曜日

すっかりご無沙汰です

いやはや、こんなにブログの間が空いてしまったのは、以前のブログスペースでブログを立ち上げた頃以来ではないでしょうか。

何か書かねば書かねば、とは思っていたものの、いろいろとやることが多くて手が回らなかったのです(ま、Facebookでは折に触れてつぶやいてはいましたけどね。)。

この3月は、Term2が23日に終わり、でもそれまでは授業の予復習、論文の準備、チュートリアルなどといった学校のことをこなし、その上に17日からは両親が来ていてそのアテンドもする(まあ、かなりの部分小鴨に委ねていましたが)といった状況でした。

で、授業が終わった週末から、両親を連れて3泊4日でパリ&アムステルダムに旅行にも出かけ、昨日(30日)は、これまた両親を連れてストーク・オン・トレントへ再出陣したわけで…。

ちょっと疲れている…かな、やっぱり。

そして、たった今、「3月の終わりまでに出します」と自分から宣言してしまっていた、論文のアウトラインの再構成(とはいっても1500語くらいにはなりましたが)を終わって教授にメールしたところ(3月31日の23時ならば、「3月の終わりまで」という約束は果たしたことになるでしょ?)。少しほっとした気持ちで3月の残りの時間(と言っても1時間足らず!)をこのブログを書くことで過ごそうと考えたのでした。

そうそう、こちらも夏時間になりましたよ。先の日曜日から。なので、日が沈むのが7時半頃になりました。
で、ちょうどその時、僕らはパリにいたのですが、土曜日にロンドンを出発してパリ入りして時間が1時間進んだところ(GMT+0からGMT+1に)なのに、その翌日夏時間開始のために更に1時間早まり(GMT+1からGMT+2に)、結局2日で2時間も時間が進んでしまったのです(今はロンドンに戻っているので、また時間が1時間戻ってます(BST=GMT+1)。

なので、大陸サイドは、今日が沈むのが8時過ぎとなるわけで、こんな経験をしたことのない両親にとっては驚きだったようです。大陸での道中はとても暖かかったし。

で、今回の大陸旅行のルート選択は、親のためということもあるのでパリを入れたのですが、僕らはこれで3回目。連れて行ったところはどこも行ったことのある場所で特に新鮮な刺激はなかったのですが、唯一僕たちも初体験だったのは、セーヌ川をぐるぐる巡っている船(Batobusとかいうやつ)でした。これが思った以上によくて、暖かい春の日差しの中、セーヌ川を遊覧するのはとても気分がよかったです。加えて乗り降り自由だし。

一方、アムステルダムは、僕も小鴨も今回始めての場所。自転車は滅茶苦茶多いものの、その街並みはきれいで、とても落ち着いた雰囲気で、母親も小鴨も(思ったよりもすばらしい、ということで)大満足。ま、胡散臭いところ(例えば「飾り窓」附近とか)には足を運ばなかったということもありますが。
オランダ人といえば、英語ではケチの代名詞のようなところもあります(割り勘を go Dutchというように)し、実際、なにやら気難しそうな面構えの人も少なくなく見かけましたが、少なくとも僕が接した人たちはほとんどみんなフレンドリーでしたよ。それに英語がみんな達者!!今まで行ったヨーロッパ大陸の国で英語がおしなべて一番上手です。どんな人も僕よりも数段上手いんだもの。その前のフランスでは、両親と小鴨の合計3人を引き連れつつ、片言のフランス語+英語でしのいでいた分、英語がスムーズに通じる環境というのがとてもありがたく感じたのでした。

両親は、4月4日に帰ります。
以前上海に来た頃と比べても大分体力が落ちているようですが、それでも今のところ病気することなくきており、一安心。残された短いロンドン滞在をできるだけ楽しんでもらおうと思っています。

それにしても、我が親も中国語の勉強の真似事(聞き流しのようですが)をしているせいか、外国語と言えばむしろ中国語の方に親しみが出てきてしまっている模様。時々中国語が現れたりするのがいとをかし。

さあ、こちらの時間でもあと数分で4月となります。
明日からの1か月は、そのほとんどを試験勉強に費やすことになります。
まあ、日が長くなったこともあり、その意味で気が滅入ることはありませんが、この春の日々をエンジョイできないのもまたちょっと悲しいかな。でも、それが学生の本分。気合入れて(抜くところは抜きつつ)やっていこうと思ってます。

2012年3月4日日曜日

夢見るはアラビアン・ナイト

まだまだ授業期間中ではあるものの、休職中の職場の事情もあり、帰国の具体的日程を考えざるを得なくなった今日この頃。各方面には、「留学後はアジアのどこかに戻る」と予告しておりましたが、さしあたりはそれは「東京」ということになりそうです。

まあ、歳も歳だし、そろそろどこかに「拠点」を設けてもいいんじゃないかなと思っていた折、それがおそらく東京となるであろうことについては、ベストな選択なのではないかとは思いますが、このまま東京に固定されてしまうようなことがあれば、それはそれで「世界を股にかけ」られなくなるからいやだなー、と思ったり。ま、仕事が仕事ゆえ、そういうことはないはずなんですけどね(少なくともアジアに関しては。)。それでも、僕の30台の大部分のように、常に外国の空気に直に触れ続ける、ということはなくなりそうで、やっぱりさびしくないと言えば嘘になるかな。

それはさておき、帰国の話です。
いろいろあって帰国予定は8月の下旬が適当だ、という話になったので(ほんとはオリンピックのさなかなんですけどね・・・)、フライトの予約をしようと、日系の旅行代理店に行ったところ、片道の直行便ってやつは実に高い!僕に学生料金が適用されるヴァージンアトランティックですら、二人で合計1500ポンド以上。おそらく払わなければならないであろう超過荷物費用を考えると更に料金上積みになってしまいます。日系などはもってのほかです。まあ、こちらに来るときも、考えてみればブリティッシュ・エアウェイズに一人あたり当時のレートで1000ポンドちょっと払っていたことを考えれば、決して馬鹿高いものともいえないのですけどね。

で、その旅行代理店の人(対応してくれた人は、一生懸命調べてくれたことはありがたいのですが、どこか愛想が悪いというか、いまひとつレスポンスが悪いというか、とにかくそんな感じでした。イギリスに長くいる日本人と会うと、時々そんな印象を受けることがあるのが不思議です。)に、経由便で安いのはあるか、と聞いたら出てきたのがアリタリアのローマ経由とエミレーツのドバイ経由。いずれも二人合計で1200ポンドほどです。いずれも経由地でのストップオーバーが可能というのですが、だからと言って簡単に予約できないのが我が家のつらいところ。というのは、「ストップオーバー=小鴨のビザの問題」が不可避的に生ずるからなんです。EUの取り方は分かるとしても(ただ、今回申請するとなればイタリア大使館で、ということになるのですが、噂では、対応もきわめて「イタリア的」だとか。)、UAEは全く未知の領域。旅行代理店の人に聞いても「えー、香港の方じゃないんですよねぇ。(ちょっと調べてから)うーん、ちょっと分かりませぇん…やっぱり、UAEの大使館に問い合わせられてからのほうがよろしんじゃないでしょうかぁ」とのことだったので、(まあ、基本日本人相手の旅行代理店なので、仕方がないのですけどね。)、この日は予約をせずに撤退しました。

その後、まあローマに行ったことはないけどイタリアはもう2回行ったから今度はUAEはどうか、と小鴨に聞いたところ、小鴨はそれでもかまわないと言うもののUAEそれ自体にあまりピンと来ていないご様子。一方僕は、大学生の頃一時期イスラム文化に興味をもったこともあり、その後も中東は是非一度行ってみたいと思っていたので、ドバイストップオーバーは願ったりかなったりといったところ。

ともあれUAEのビザについていろいろ調べてみたのですが、どうも96時間有効の通過ビザが割と取りやすいことがわかったものの、今もそうなのかはよく分かりません。それならば、エミレーツの窓口で直接聞いてみよう、ということになり、先週の日曜日、グロスター・ロードにあるエミレーツのロンドン支店に足を運んだのでした。(※)

(※)これが、前回の記事で触れた「用事」です。

で、エミレーツのロンドン支店と書いてあるビルは、普通の瀟洒なオフィスビルの雰囲気で、エレベーターホールと守衛さんがいるだけでカウンターなど1つもありません。中に入って「え、エレベーター昇るんだよねぇ。」などと言っていたら、


うわっ!!!

という大声。びっくりして振り返ったら、守衛さんがニヤニヤ笑っています。おもろいおっさんです。
で、どこに行くんだと聞かれたのでエミレーツのオフィスに行きたいんだけどと答えたところ、「それならエレベーターで1階だ(つまり、日本でいう2階)」と親切に教えてくれたのでそれに従ってオフィスに。果たしてエミレーツのオフィスがありました。
で、名前を登録して番号札をもらって待つこと10分か15分。頭にヒジャブ(スカーフ)を巻いた女性スタッフが僕たちを呼んで早速いろいろ聞いてみました。
で、要約すると、次のような感じ。

・96時間のトランジットビザの制度は変わっていない。
・飛行機とホテルさえ予約すれば、エミレーツのウェブページからも申請可能だし、ドバイに着いてからでも申請可能。
・飛行機とホテルの予約は別にエミレーツを直接通さなくてもよい。つまり、代理店や他のウェブサイトからの予約でも全く問題ない。

へぇー、なんかとってもフレキシブルだねぇ。と感心しつつ、「もし仮にここでフライトを予約したらいくらするんですか?」と聞いてみました。すると、

ここで予約すれば一人税込み542ポンドですけど、エミレーツのサイトで予約すれば更に一人当たり29ポンドお安くなりますよ♪

との由。

な、何だってー!!(AA略)

だって、日本とかじゃあ、航空会社のウェブサイトでの申し込みなんてのはどうやったって高いことが当たり前。ましてやシングルなどは割引などありえない世界でしょ。それが、シングルかつストップオーバー可能なチケットが旅行代理店よりも安く買えるなんて、信じられません。

ともあれ、とてもはきはきと懇切丁寧に対応してもらったことに感謝しながら(別にけなすつもりはありませんが、ふとその前に訪れた旅行代理店の対応を思い出さざるを得ませんでした。)エミレーツのオフィスを後にしたのでした。もちろん、下の守衛のおじさんにもByeと言ってね。

…というわけで、その後エミレーツのサイトで予約をしたのですが、エミレーツのお姉さんの言ったとおり、一人29ポンド安、二人で58ポンドの更なる節約に成功、フライトの代金は1025ポンドとなったのでした。これ、日系の航空会社の片道一人分と同じか、それよりももしかしたら安いかも…。
ちなみに機材はロンドン-ドバイ、ドバイ-成田両方ともエアバスA380。総二階建てのアレです。まあ、これについてはいい評判も悪い評判も両方聞きますが、ともあれ一度は乗ってみたいと思っていたので、これにも期待大です。加えてエミレーツのサービスの評判は世界でも指折りですしね。

で、こうなれば「留学生活の最後はアラビアン・ナイトとしゃれこもう!」ということになるのが必然の流れとなるわけで、早速ホテルも予約。ま、そういうのもいいじゃありませんか♪

ともあれ、苦しい試験+論文を乗り切るモチベーションができました…多分。
小鴨も、UAEの情報をいろいろ集めたり、上海万博のUAE館がなかなかよかったことを思い出したりするうちに、次第にドバイに乗り気になってきました。

ともあれ、アラビアン・ナイトを夢見て。

2012年2月26日日曜日

TFL

TFL。別にTRFの間違いじゃありませんよ(つか、このネタを引っ張ってくるだけでジェネレーションが分かったしまうのが悲しいです。ま、trfと書かないだけましかな?)。

ともあれ、TFLとは、Transport for London、言ってみれば、「ロンドン市交通局」のようなものといえばよいのでしょうか。ロンドンのアンダーグラウンド(地下鉄)やバスなどを統括する部門です。

ロンドンの地下鉄は、週末ごとにどこかで工事をやって運休するのが常ですが、このところ、僕の住むノーザン線のハイ・バーネット支線(※)が毎週末運休するので、週末に街に出るのが不便でたまりません。こういったことをインターネットや(登録すれば)メールで詳しく情報提供してくれるのはありがたいのですけど。

(※)ノーザン線は、カムデン・タウンを挟んで南北に2つずつの支線(ハイ・バーネット/エッジウェア及びチャリング・クロス/バンク)があって、それぞれが交互にクロスしながら運行されています。


こういうときは、TFLも気を利かせて地下鉄の走る最寄の駅までRail Replacement Bus(代替バス・無料!)を出すので、都心に出るのが不可能というわけではないのですが、それでもいくらか時間がかかるので億劫ですよね。

で、昨日もまたまた地下鉄が運休となってしまったので、代替バスを使っての移動となったのです。
ハイ・バーネット支線が全部運休の場合には、僕の住んでいるところからは同じノーザン線のエッジウェア支線のゴルダーズ・グリーン行きの代替バスが出て、10分ほどでゴルダーズ・グリーンに着くのでなかなか便利だったのですが、今回はあいにくハイ・バーネット支線の「一部」運休。となれば、代替バスはゴルダーズ・グリーンに行かず、ハイ・バーネット支線が折り返すアーチウェイまでのバスとなっていたのでした。

前置きが長くなりましたが、ともあれこれに乗ったのですが、もともとアーチウェイまでは距離があるのに加えて、渋滞にも巻き込まれ、アーチウェイまで半時間ほどかかってしまいました。そして、アーチウェイについて地下鉄に乗ろうとしたら、この日に限ってハイ・バーネット支線の列車が全てバンク支線経由とのこと。もともとチャリング・クロス支線方面に行こうと思っていた僕らはとことんついていません。
…まあ、ロンドンの地下鉄は東京並みに入り組んでいるので、バンク支線からでもルート構築しやすいのがありがたいところですけどね。結局、無事目的地(♯)に到着です。

(♯)このあたりの話については、次のブログで紹介できるかも?

で、この日はいろいろふらふらした後、ロンドンの大きなデパートの1つのセルフリッジズまでやってきました。こうなったら、家に帰るのには82番のバスが便利!少し時間がかかりますが乗りっぱなしで最寄のバス停まで行けるし、上記のとおり、この日はどのみち地下鉄で最寄り駅までいけないわけだしで、早速やってきた82番のバスに飛び乗って2階の席を陣取ったのでした…。おおよそ7時半くらいでしょうか。





でも、そこからが地獄でした…




82番のバスは、セルフリッジズを出発後、一路北に向けて普段どおりに走ります。と、フィンチリー・ロードに入ったあたりから、渋滞に巻き込まれだしました。それも普段とは違った感じで。小鴨と「これじゃあ8時半位に着きそうだね」なんて話をしていました。

渋滞に巻き込まれたバスは、それでもゆっくりと歩を進めて、ようやくフィンチリー・ロード駅の辺りまでやってきたのですが、行く先にはなぜかパトカーが止まっていて、迂回を促しています。原因はなぜかよく分からないのですが、少なくともこれが渋滞の原因だったのでした。で、我らが82番も警察の誘導に従ってウェスト・ハムステッド方面に迂回を始めたのですが・・・



一向に動かない!!!


ある場所の信号など、こちらの青信号は10秒そこそこの癖に赤信号は数分続くなどというひどい状態で、ものすごい時間をかけてようやく曲がれたと思ったら、そこも激しい状態が延々と。
イギリス人はこういったことに割りと我慢強いように思うのですが、それでもさすがにいらいらした空気が流れます。きれいな服を着たお姉さんが”F**king”と言ったり、お兄さんがどんどんと窓ガラスを叩いたり。
また、イギリスは路駐が至って普通で、これがこういった時の交通を見事に阻害してくれます。ある場所など、対向車線も数珠繋ぎのカーブで我らが82番が曲がることができず、その原因が路駐車+それを無理によけて変な角度になっていた対向車のせいとわかるや、別の男性が2階の窓からにらみつけるとか。

で、迂回区間がようやく終わり、フィンチリー・ロードに戻ってきたときは、みんなが「お、戻ってきた!」と言って空気が和らいだのは面白いです。


で、バスはようやく、本当にようやく最寄のバス停に着きました。時間は9時半。考えてみれば2時間もの間82番に乗っていたのでした。東京から新幹線に乗れば、米原と京都の間くらいまで行ってしまいそうな時間、冬のジェット気流が速い日に上海から離陸した飛行機なら成田に着いてしまいかねない時間です。さすがにくたびれましたよ。

…ま、それでも、これが中国だったら、渋滞は、さらにカオスだっただろうし(お互い譲りあわない車文化ですから)、どこかで喧嘩が始まっていただろうし(車同士、乗客同士、乗客と運転手、などなど)、クラクションはそれこそけ鳴り止むことがなかったことでしょうし、その結果時間だってもっともっとかかったことでしょう。路駐の酷さを除けば、イギリスの交通マナーは比較的よいので、2時間でもまだましだったのかもしれませんね。ただ、もう少し「何で道路が封鎖されているのか」の説明くらい欲しかったけど(運ちゃん、何も言わないんだな、これが。)。

ともあれ、交通機関についての運が全くなかった土曜日でした。

あ、そうそう、あと1つノーザン線に関する文句を。
この線、なぜかよくわからないのですが、ちょくちょく行き先が変わるんですよね。チャリング・クロス回りのはずが途中でバンク回りとなったり、ユーストンやイースト・フィンチリーで突然運行打ち切りとなったり。ある意味器用な運用と言えばそうなのですが、いわば新宿から乗った小田急線の本厚木行きが登戸辺りで「やっぱり唐木田に行きまーす!ごめんね♪」と言うのと同じこと。これ、外国人が初めて使う時は面食らってしまうし、車内放送を聞き逃したら知らないところに連れて行かれたりするわけで、なんとも厄介な話です。ま、ジモティーたちは慣れたもので、二言三言文句を言いながらも、おとなしく電車を降りてゆきます。余りあせらないのもイギリス人の気質なのでしょうか。

2012年2月21日火曜日

陶器の街で(その2)

というわけで、前記事の続き。
写真が少ないのはごめんなさい。

ウエッジウッド/ロイヤル・ドルトンのアウトレットショップには結局3時間ほどいたようで、店を出ると午後1時40分。さすがにお腹が空いています。

なので、Hanleyに戻って昼飯を食ってどこかのビジター・センターか博物館に行こうと思ったのですが、なんとなーく時間が中途半端となる予想。
横には未だ興奮気味の小鴨…

しゃーない、じゃ、別のアウトレットに行こう、ということになってしまいました。
ここにおいて、今回のストーク・オン・トレント旅行は、完全な買い物ツアーへと変容してしまったのでした。

で、目指すはDenbyというメーカーのアウトレットショップで、ウエッジウッドのアウトレットショップからは、目の前のバス停から、Hanleyとは逆方向のバスで行けるようです。
というわけで、やってきた34Xのバスの運ちゃんに「ここ行きたいねんけど、このバスでええのん?」みたいなことを言ったら、「行けるで、大体2時半頃着くと思うわ」とのことだったので、シングルチケット2ポンド/人を払ってバスに乗り込みます。

そして、予定の時間よりも遅れること約10分、バスの運ちゃんが「ここやで」と言ってくれたバス停で下車。
こんなところ。


…うーん、何もない田舎の住宅街のようなところです。
自分のパッションの赴くままイギリスにやってきた僕も、とうとう、こんな何の観光的要素もない田舎の辻にまでやってきたのでした…。

で、Denbyのアウトレットショップを探したのですが、それらしきものが見当たりません。結局、入った売店にいたお客さんのおばちゃんに教えてもらってやってきたのがイギリスでよくありがちな郊外型ショッピングセンターです。そう、Denbyのアウトレットショップは、ショッピングセンターのテナントの1つに過ぎなかったのです。ウエッジウッドのアウトレットのようなものをイメージしていた僕たちがなかなか見つけられなかったのは無理もありません。

そうそう、Denbyというのは、僕も今回はじめて知ったのですが、日本語のウェブサイトもありましたのでリンク貼っておきます。

http://denby.jp/

うん、風合いとしてはむしろ日本人にも親しみやすい雰囲気です。全体的にやや厚手で、シンプルな雰囲気がウェッジウッドとは異なる風格をかもし出しています。どちらかといえば、日本人受けしやすいかもしれません。
…結局、ここでも各人用のお皿4枚に大皿1枚を買ってしまいました。Imperial Blueというシリーズで、青がとってもきれいです(上記の日本語サイトには上がっていませんが、イギリス本社のサイトには上がってました。)今、日本での価格を見たら、大体その40%~70%引きかな。
ただ、ここでは日本への配送とかVAT還付手続とかは扱っていないということだったので、それからはえっさほっさとハンドキャリーせざるを得ませんでした…。

Denbyを出たのが結局午後4時前。そこから34Xのバスで来た道を戻ってHanleyに帰ってきたのでした。
おなかがすいていた僕たちは、早速パブに入ってパブ飯。僕もエールを飲んでほっとしたのでした。


その後、6時12分発のヴァージンの列車でロンドンへ。ユーストン7時42分着。地下鉄の連絡も絶妙のタイミングで、8時15分には家に着いていました。

ストーク・オン・トレント。
もともと小規模な6つの街が合併してできた、中国で言えばちょうど東ガンのような街。
それでも、陶器のアウトレットの掘り出し物目当てに多くの旅行客を集めているそうな。
そして、我々もone of themになったというわけ。

2012年2月19日日曜日

陶器の郷で(その1)

なんかロンドンに引きこもるのが嫌になった僕が小鴨に「よし、週末どっかでかけよう」と言ったのが先週の火曜日か水曜日。
で、切符をネットで買って土曜日に出かけたのが、イングランドの焼き物の街として名高いストーク・オン・トレントです。

ストーク・オン・トレントは、ロンドンから北に約200キロ。バーミンガムとマンチェスターの間になるのかな。でも、ロンドンからはヴァージン・トレインズのユーストン発マンチェスター・ピカデリー行きインターシティ(都市間連絡列車)でわずか1時間半!ユーストンは、僕たちの住んでいるところから一番近いターミナル駅であることも相まって、なかなかの好アクセスです。切符代は、一人片道29ポンド(3700円くらい?)。まあ、距離を考えたらそんなもんかな、という感じです。もっと早く予約しておけば、もっと安かったかもしれないけど。

で、8時ちょうどにユーストンを出たヴァージンのインターシティは、一路北へ快走します。どこでも寝られる小鴨が早速爆睡モードに入った傍らで、僕は、月曜日の授業の予習のための論文を読み始めます。と、カーブで体がふわっと浮き上がる感覚がしてふわっと元に戻りました。
…そうなんです、この列車、ペンドリーノという、ヨーロッパでポピュラーな振り子式車輌だったのです(振り子式車輌がどんなものか、ってのは、ここでは省略ね。)。うーん、この感覚、昔松山に住んでいた頃宇和島方面に行く時に乗った特急「宇和海」が伊予市の南で海線と別れて内子に向かって爆走を始めた時の感覚に近いなー(←細かすぎやな)、なんて思いつつも、車輌が元気に振り子モードに入っている中で細かい字と格闘すれば簡単に乗り物酔いになってしまう、と思って、論文は少し読んだところでギブアップ。車窓に広がるイングランドの田舎の風景を眺めていたのでした。あと半年もすれば、そういった景色も自由に見ることもなくなると思えば、少しでもそれを目に焼き付けたくって。


ペンドリーノの車内。乗車率はそんなに高くありませんでした。でも、なかなか快適な道中でしたよ。この写真の奥に、薄緑(薄青?)の服を着ている男性が写っているけど、この人は、どうもBBCのある歴史ドキュメンタリー番組で司会をやっている人らしいです(小鴨曰く)。ともあれ、この男性、同行の何人かと書類を見るなどして車内でも仕事に余念がない模様でした。

で、たどり着いたストーク・オン・トレント駅です!


駅名標。ストラトフォード・アポン・エイヴォンしかり、こんな地名になっているのは、ストークやらストラトフォードという地名がイギリスにはたくさんあるからで、「○○川のほとりの××」てな具合の地名をつける必要が生ずるわけですな。そういう意味ではon以下は、日本で旧国名を冠するようなものですね(大和高田とか、河内長野とか。)。


駅を後にするヴァージンのペンドリーノ。10両位の編成だったかな?これは、電車でした。


…と、隣のホームに、ローカル列車が入線。それが何と1両だけ!それもディーゼルカー。こんな長いホームがもったいないよ、と思ったら…!


こちらのホームにも同じように単行ディーゼルカーのクルー行きが入ってきました。まあ、こんな風景、山形とか秋田ならばそんなに珍しくもないのかもしれませんが、新幹線と在来線が同居するような不思議な感覚を覚えたのでした。

===

…で、僕らがこの街にやってきたのは、ここがウエッジウッドなどのイングランド有数の窯元のビジター・センターに行くという目的に加え、いくつかある陶器のアウトレットショップが格安だという噂を聞いたからでした。
で、まずは情報収集ということで、この市の中心に当たるHanleyという場所までバスで移動((地球の歩き方で「ヘンリー」と書いていたので、この場所がHenryだとすっかり勘違いした僕は、バスの運ちゃんに「Henryまで」と言ったら全く分かってもらえませんでした。City Centreといってようやくわかってもらった次第。やっぱり日本語に依存しすぎるのはあきまへんな。)。そこのツーリストインフォメーションセンターでヴィジターセンターやアウトレットショップのリストをゲット。で、時間とアクセスの都合からまずはウェッジウッド&ロイヤル・ドルトンのアウトレットショップに行ってみようということになりました。

このアウトレットショップまでは、Hanleyのバスターミナルから34又は34Aのバス(乗り場はナショナル・エクスプレスのコーチ乗り場に近い方でちょっと分かりにくいかも。)で約10分。片道2ポンド/人、往復3ポンド/人です。

ともあれやって来ましたアウトレットショップ。プレハブの外観は、いかにもアウトレットショップ!


中では、かの有名ブランドの焼き物が余り高級感なく(?)並んでいます。ま、倉庫のような感じではありませんが、それでもデパートで見る感じとは明らかに違います。




肝心の価格なのですが、ネットでの情報では、ウェッジウッドの事実上の破綻以来値引率は悪くなっているという話もあったのですが、それでも探せば格安のものが見つかります。例えば、ワイルドストロベリーのマグが5ポンドとか。お皿もそれほど手の込んだ絵付けがないシリーズならば、1枚2.5ポンドとかで売られています。ウェッジウッドのマークが入っていない真っ白のカップ(でも、その形は紛れもなくウェッジウッドそのもの!)に至っては、1.5ポンドです(もっとも、ソーサーをあわせれば更に1.5ポンドかかっちゃうけど、それでも3ポンドとはお得じゃないですか?)。

実は僕らは、上海時代に結婚しているので、日本には「自分たちの食器類」というのが全くありません(僕が独身時代に個人で集めた酒器の充実度はそれなりですが。)。上海でも、基本的には借りた部屋に備え付けの食器を使っていたし。
というわけで、いずれにせよ今年日本に戻れば食器を買わなければならないわけで、それならばある程度はここで買ってしまおう、というのが今回のアウトレットショップ来訪の目的でした。訳あり品なので、多少傷があったりしますが、それでも実用には何らの支障もないものばかり!何気に使っているのがウェッジウッド、なんてのもちょっとおしゃれじゃないかな(それもアウトレット品など、イギリスで「しか」買えない代物じゃないですか!)と思った次第。

…というわけで、結局ああだこうだと悩んだ挙句、これだけのものを買ったのでした。
・皿・・・大小合わせて14枚(うち4枚はやや高級で約16ポンド/枚ですが、それ以外は2.5ポンド/枚)
・カップ&ソーサー…デミタス、ティー、コーヒーを2セットずつ合計6セット
・ティーポット

これで日本への送料(約35ポンドくらい)を含めて、合計150ポンドほど。日本円で17000円弱かな。ウェッジウッドであることを考えれば、かなり安いと思いませんか?ちなみに、付加価値税の還付手続もちゃんとやってくれますので、なかなか利用価値が高いです。

で、何をどのくらい買うかいろいろ悩んでしまったので、来月渡英予定の我が母親に電話でアドバイスを求めたりしたのですが、話しているうちに、母親の口から、「次に来たときには云々」との話が!

実は、母親も結構陶器屋を見て回るのが好きな人。そのおかげで今、実家には食器があふれ返っているのはご愛嬌。で、僕もその遺伝子を受け継いで陶器好きだし、折り悪く(?)小鴨も陶器が好きなのです。そういうこともあり、また、僕が久しぶりに財布の紐を緩めて買い込んだこともあり、小鴨は興奮状態でした。

そして・・・

(続く)



2012年2月8日水曜日

挽歌

今日、伯父が亡くなりました。
インフルエンザで。

91歳なので、年齢的には大往生と言っても差し支えないのでしょうが、直前までとても元気だったのがインフルエンザであっけなく逝ってしまったことが、とても悔しくてなりません。
たかがインフルエンザ、というわけではないのですが、(理屈では分かっていても)まさかインフルエンザで命を落とすなんて…と思わずにはいられないのです。

この伯父は、僕の父親の姉の夫なので、直接の血のつながりはありません。歳もものすごく離れているので、何か行動を共にする、ということがあったわけでもありません。それでも、会えばとても気さくな人でした(若かった頃は、さぞかしハンサムだったのではないかと思います。)。なので、(後述する事情もあり、)この伯父に会うのが帰省する楽しみの1つでもありました。

この伯父は、無類の酒好きでした。いかにも酒を慈しむような、愛でるような感じで、そのお猪口の持ち方、その掲げ方、口の近づけ方など、その1つ1つがとても絵になる酒の飲み方をしていたものです。そしてそれは、僕の酒の飲み方の一つの理想型にすらなっています。

日本に帰ってまた酒を飲むのを楽しみにしていたのに…。


今日の昼、日本からその電話があった時、僕はちょうど勉強をする気がなく訪れた大英博物館から出たところでした。そして、僕はその電話を受けながらレスタースクウェアまで歩き、パブに入ってエールで弔い酒を傾けたのでした。

でも、飲みながら、うーむ、やっぱりエールは伯父の弔い酒としてはあまりふさわしくないかも、と思ったのでした。

===

そして、さっき、夕食をとった後、伯父の好きだった日本酒の熱燗で、弔い酒の仕切り直しをしたのでした。日本に帰って送り出すことのできない非礼を詫びつつ。

2012年2月4日土曜日

複数言語環境その2

タイトルの理由は、同じタイトルで以前書いたことがあるから。
ただ、今日は、以前のように英国を語るのではなく、自分自身のこと。

母語以外の言語を話す時ってのは、往々にして脳内で母語との変換作業を行うわけですが、これも慣れてくればその変換作業もかなり減ってきます。つまり、その言語が複雑な思考回路をそれほど経ることなく出てくるようになるってことです。ま、僕の場合には、ネイティブレベルに達することは端からあきらめていますので、「日常の基本的なコミュニケーションと仕事に堪え得る程度のレベル」においてですが。

まあ、30を越え、酒でいかれた脳には、このようになるまでは相当時間がかかるわけですが、中国語の場合には、上海駐在の終わり頃には何とか目標とするレベルまでは概ね達したのかな、という感じだったかな。翻って英語の場合には、本格的にやりだしてからまだ2年弱ということもあり、正直どのレベルなのか分からないのですが、ただ、今のところは、中国語のようには自由に表現できない(否、もしかしたら、英語の方こそ中高時代の基礎があるためにより複雑な表現を求めようとしているが故の苦しみなのかもしれません。)ような気がしてならないのです。まあ、ぱっと言葉を変える際に、中国語のほうが滑り出しがよいかな、という感じでしょうか。

で、最近困っているのは、次の2つ。
まずは、日本語―外国語のコンバートは、比較的流れに乗ってやりやすいのですが、外国語―外国語のコンバートは非常に難しい(文法から語彙からごちゃごちゃしてしまう)こと。例えば、この間の話。僕の論文のテーマのことでマレーシア(華人)と話をしていたのですが、そもそも日本語ですらちゃんとまとまっていないアイディアを英語で話すのは至難の業で、僕があーうー言っているのに業を煮やした彼女は「中国語で話して」とリクエスト。でも、中国語に切り替えても英語とごっちゃになったり、適切な中国語の表現が浮かんでこなかったりしてより混乱してしまい、会話にならずに大恥をかいちゃいました。
でも、これは外国語学習という側面からは比較的面白い話なのかもしれません。つまり、外国語を複数やると、当初は、外国語相互間に絶対的な優劣がつきます。なので、劣勢の外国語から優勢な外国語にコンバートすることはさほど難しいことではなく、逆に優勢から劣勢へのコンバートはほとんど不可能になる(優勢外国語がほぼ完全に支配する)わけです。ところが、当初劣勢であった言語に次第になじんでくると、その優劣のギャップが小さくなり、そうなってくると、相互に相手の言語が侵入しあったり、「どっちの言語で考え、話しているのか」分からない状態になってしまったりしてしまうわけです。おそらく僕は今中国語と英語に関してはそんな感じの状態で、これを抜ければトライリンガルへの明るい世界が待っているのでしょう。
でも、それは難しいんだろな…。
つか、もっと英語を話さないと(今僕に一番かけているのは、スピーキング!)…。

で、2つ目。
家では普段日本語を使っているのですが、小鴨との間で単発的に出てくる中国語の語彙は、往々にして(冗談で言い合っていることもあり)四川語のアクセントが多いんですよね。それに加えて、小鴨が電話で誰かと話す場合でも、まず四川語なわけで、どうも僕の中国語がどことなく四川語のアクセントっぽくなっているらしいのです。
それが証拠に、この間の春節の日、小鴨が上海時代の同僚(僕も知っている人です。)にあけおめコールをしたのですが(相手は西安人なので、普通話での会話です。)、その後電話を替わって僕が行った第一声「新年快楽!」が、どうも四川っぽいアクセントになって不自然だと自分で感じたとともに、その友達も「Mimakiirihikoの中国語、なんだか四川っぽい」といわれてしまいました。

うーん、いかんいかん。

2012年1月27日金曜日

痛快ウキウキ(セント・ポール)通り

僕は大学入学にあわせて上京したのですが、渋谷に初めて行った時、今まで経験したことのない街の雰囲気(それは、今から思うと、「若い世代のエネルギーが作り出して出来上がった巨大な繁華街の雰囲気」なのでしょうか)に、「俺はここ(渋谷)には絶対なじまへんやろな」と思ったものです。

でも、通っていた大学(の教養課程)の校舎が渋谷に比較的近かったこともあり、渋谷は(住んでいた路線のターミナルである)新宿よりも頻繁に行く繁華街になり、しばらくすると渋谷が自分自身にとって東京で一番なじむ感じがするようになりました。

それからは、特に何かするわけではなくとも、センター街から宇田川町交番の方に、そして更にスペイン坂を上がったりするのは、何となく心がウキウキする感覚を覚えずにはいられませんでした。

…ちょうど大学生の頃にはやっていた小沢健二の「痛快ウキウキ通り」の雰囲気のように。
まあ、「プラダの靴が欲しい」というような彼女がいたわけでもなく、「喫茶店で独りワインを飲んで」いたこともないけどね。

大学を卒業し、各地を点々とするような生活になってからは、東京に住んでいた時すら余り足を向けることがなくなってしまいましたが、それでも渋谷は大学生の頃を思い出させる懐かしい街であることには変わりありません。

===
この間、持っているスマホのOSを更新したのですが、その際にもう少しこのスマホを有効活用しようと思い、PCに入っている音楽をちょっとためしにインストールしてみました。で、その中の1枚が小沢健二の「刹那」。2曲目にはかの「痛快ウキウキ通り」が入っている、アレです。

で、昨日、バービカンでの授業が終わった午後8時、小鴨がランゲージ・エクスチェンジを終えてTottenham Court Roadの辺りにいるということだったので、そこまでダイレクトに行けるセントラル線に乗るためにセント・ポール駅まで歩いてゆきました。バービカンの駅をかすめて南に足を進め、ロンドン博物館のところにあるロータリーを右に入って道なりに更に南下。と、セント・ポール寺院のドームが目に飛び込んできます。ちょうどその時、「痛快ウキウキ通り」が耳に飛び込んできたのでした。

このスマホ、やたら重低音の出力がしっかりしていて、もともとベースラインを効かせつつ生っぽいレコーディングをしている(と僕が勝手に思っている)オザケンの音がより耳にごつごつと訴えかけてきます。で、そういうベースラインに耳を委ねていると、曲に乗せられて気分が乗ってきます。歩いている雰囲気も、ちょうどこの曲のPVのようなような(でも、あくまでも脳内の話。実際にやったらただのヤバい人だし。)。

セント・ポール駅に向かう道。どちらかといえばビジネス街なので、夜8時ともなればややひっそりすらしていて、センター街のような賑やかさはありません。でも、冷えた冬のロンドン空気の中、セント・ポール寺院のドームを目指して歩いている自分にとって、その道は、その時は、間違いなく「痛快ウキウキ通り」なのでした。

2012年1月22日日曜日

崇徳院

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

まあ、百人一首でも有名な崇徳院の歌ですね。落語の「崇徳院」でなじみのある人もいるかもしれませんが。

ご存知のとおり、この歌はもともと恋の歌なのですが、「時の流れの速さに逆らえず分かれざるを得ないが、いつかきっと再会したい」というこの歌の基本的な骨格は、僕が上海のオフィスを去るときの感慨に不思議なほどフィットしました。なので、スタッフを見送って誰もいなくなったオフィスの会議室のホワイトボードに、そういった思いをこめてこの歌を大書して事務所を後にしたのでした。なんか空っぽになった心とともに。
…うーん、今から思えばかなりこっぱずかしいことなのですけどね。感傷的な心情というものは恐ろしいものです。

===
先週の金曜日、上海時代のスタッフからグリーティングカードがやってきました。
当時のスタッフの中には既に退職した人もいるのですが、そういった人たちからもおそらくメールベースでメッセージを取り付けて残っているスタッフが代筆するという念の入れようです。
そして、それぞれの言葉を見ると、僕の知っている彼女らの個性が溢れ出ていて、自分自身があたかも上海時代の自分に戻ったような錯覚にすら陥りました。

そして、そのうちの一人のメッセージを見ていると、最後に日本語で、「水の流れがきっと世界のどこかで合流して1つになる~~(^_^)」と書いているではありませんか!この子、僕のホワイトボードの落書きを覚えていたんですね…。
一瞬「おおっ!」と思い、次に「恥ずかしいっ!」と思い、そして「ありがたいっ!」と思ったのでした。

で、各人へのリプライをここに。
Z嬢: 昔と変わらず色々気にかけてくれてありがとう。まじめに勉強してますよ。学生身分は、ある意味仕事のプレッシャーと比べれば楽なものなのでしょうが、楽ということはありません。特に、大学院に入ってからは。Zさんも自分の夢に向かってがんばってください!

X嬢; イギリス生活も2年目になると、不便ということはあまりなくなりましたが、個人的にはやっぱりアジアがいいなあ、と思ってます。酒はビールやワインがメインで、中国の酒はなかなか飲めません。旅行は色々しましたが、運動については…聞かないで!

GWY嬢:歌はねぇ、歌ってないんですよ。ちょっと考えたこともあるんですけどね、歌うんならちゃんと練習しなくちゃいけないし、そうするにはあまりに時間が短すぎるしで。ともあれ、今年は必ず上海に行く用事があるので、そのときにみんなで食事をぜひ!

W嬢: 四川料理!こちらでも食べられないことはありませんが、やっぱり中国で食べるのが一番ですね。渝郷人家、品川、海底撈、川国演義…思い出しただけでよだれが出そうです。そうそう、ロンドンでは上海料理が食べられないんですよ。だから、それもいいな、と。

GWJ嬢:写真とかではあまりわからないかもしれないけど、上海の頃より少なくとも3キロは痩せてます。おそらくイギリスに来た当初、食事をほとんどせずに歩き回ってどーんと体重が落ちたからかもしれません。なので、今はあなたが描いたパンダのようにはかわいくないかも!?

===
今日の午後4時、中国時間で春節を迎えました。
小鴨にとってはやっぱり春節こそが新年という気持ちが強いため、朝から気合を入れて四川料理を作っていました。部屋も、少しばかりチャイナタウンで買ってきた飾りをつけて、インターネットで中国中央電視台の年末恒例の演芸番組を流し続けて、午後4時きっかりに食事をしました。ヌーシャテルで買ってきたピノ・ノワールと共に。

でも、今年の春節は、いろんな意味で特別です。単に歳が改まっただけではなく、その他の面で大きな変化もありましたから。何かこう、心がまっさらになったような、そんな気すらします。
そういったさまざまな流れの中でも、彼女たちは昔と変わらずにメッセージを送ってくれたことに、本当に感謝しています。

だから、今年、絶対、彼女らと「あはむとぞ思ふ」!

新年快楽!

2012年1月17日火曜日

ああ無情

学校が始まって軌道に乗ってくると、さすがに冬休みの時のようにはせっせと更新することもままなりません。自分なりに勉強の方法論を先学期とは違ったものにしてみようとしているのですが、まだ軌道に乗ったともいえず、困ったものです。でも、進まないよりも進んだ方がましなわけで。

今日は、夕方の5時半ころまでバービカンで授業があり、その後ウェスト・エンド(=チャイナタウンの辺りのことね)でレ・ミゼラブルのミュージカルを観てきました。ウェスト・エンドへはバスで向かったのですが、途中通ったセント・ポール寺院の前ではウォール街のデモと連動して起こっているデモのテントが並んでいました。

で、レ・ミゼラブルなのですが、お恥ずかしいことに、このMimakiirihiko、この原作を読んだり、映像作品で見たことが全くなく、とにかくロンドンでおそらく一番のロングラン公演をやっている(25年以上)ミュージカルというだけのミーハーな理由でのチョイスです。

劇場は、チャイナタウンの道路を挟んで向かい側。僕たちはいつものとおり一番安いチケットを買いましたので、劇場の最後列の席。でも、観劇にさしたる支障もないし、割と広角的に舞台を見られるので、決して悪くはないと思います。ただ、今回の劇場に限っていえば、最後列のシートピッチが今まで経験したことがないほど狭く、ちょっと窮屈だったかな。

で、肝心の劇のほうですが、今まで僕たちが見たミュージカル(マンマ・ミーア!、ビリー・エリオット)や芝居(39 Steps)とは趣を異にする、いわば「クラシック」なミュージカルといった感じでしょうか。俳優たちはおそらく相当程度声楽の素養がある人たちなのでしょう、おしなべてしっかりした発声をしていてとても上手です。マイクは当然入っているのですが、生の声も最後列の僕のところまでちゃんと飛んできていましたしね。特に、主人公のジャン・バルジャン役の俳優は、fffからpppまでを表情豊かに歌い分けるすばらしいテノールでした。それに、全てのセリフが歌になっているのも、これまで見た2つのミュージカルとは違うところ。言ってみれば、オペラの現代版のような感じで、もしかしたらこういったものがミュージカルの「原型」なのだろうか、とも思ったりしたのです。

で、休憩時間には「歌ばっかりで普通のセリフがなく、全体的にだらだらしている」とぼやいていた小鴨ですが、最後のジャン・バルジャンが死ぬ場面では鼻をぐじゅぐじゅいわせてきっちり泣いていました。うん、確かにこの場面は、思わず引き込まれましたよ。

そういった辺り、このミュージカルが四半世紀以上のロングランを続けている所以なのかもしれませんね。

僕としては、総合芸術としてミュージカルを観るならば、レ・ミゼラブルは今まで観たものよりも完成度が高いんじゃないかな、と思いました。観劇後のしみじみとした反芻も今までにはない経験でした。
でも、僕はもともと、「お気楽に、ひたすら楽しい」ものが好きな人。なので、レ・ミゼラブルのようなしみじみしたのも時には悪くないと思うものの、文句なしに「楽しい!」と思えたマンマ・ミーア!をあえて強く推したいと思います。あの時は、台湾のC嬢と小鴨との3人で行ったのですが、芝居がハネた後、3人が3人ともABBAの歌をハミングしていたのは、我ながらとても印象的で…。

次のミュージカル鑑賞は、小鴨の強い希望で「シカゴ」になりそうです。
まあ、この点に関する僕の希望はまず反映されないのです…ああ無情(T_T)

2012年1月11日水曜日

方言萌え

東男に京女、とは昔からよく言われるわけですが、京女を語るときには、京ことばが重要なファクターとなっていることはだれもが認めるところでしょう。それも、「萌え」ファクターとして。

そういえば、京都在住の友人(女性)が、「京都弁使っておけば、おっちゃんたちは妙に喜ばはる」なんてことを言ったことがあるのですが、これもおっちゃんたちが京都弁に萌えていると言い換えて差し支えないのでしょう。なお、当人は、実は京都在住歴の長い但馬人というのは内緒の話。

ともあれ、方言を話す女の子に萌える、というのは少なからぬ男性において共通認識のようで、僕も結構賛成派です。前にも書いたけど、愛媛にいたときに、かわいい女の子が「~しようわい」と言っているのを初めて聞いた時は結構びっくりしましたが(だって、「わい」って言葉は、僕にとっては「ちゃうわい!」というように、男が強い口調で使うのになじむ語尾ですから)、この「わい」は、実際には優しい感じで発音されるので、「おー、かわいいじゃん」となるわけです。まあ、これも一種の「萌え」なのでしょう。

というわけで、youtubeをブラウズしていたら、日本のU局ネットで放送されていた「方言彼女。」という番組の「方言講座」というコーナーの動画がヒットしました。方言+美少女というコンセプトで、「美少女」という要素が「方言」の萌え度をより増大させているわけですが、見ていて方言も面白いものだなあ、とつくづく感心するやら笑うやら。

なかんずく、僕の中で特に秀逸だったと思うのは、親父の故郷でもある岐阜弁バージョン。これです。


共通語の浸透が激しい昨今、全てのボキャブラリーを方言にするというのは、方言話者本人にとっても至難の業でしょうし、それゆえ出来上がったものは往々にして「無理っぽい、古風な」ものになりがちで、これももしかしたらそうなのかも。でも、「買いからかす」、「買わなかん」、「ちょ」というのは、今でもごく自然な言い回しなのでしょうし、アクセントの位置の説明もナイスです。
そして、極めつけは、最後の「えか!」。これは、親父も良く使う念押しの言葉なので、岐阜で岐阜弁を使っている上では何てことのない言い回しなのでしょうが、この子は、共通語のニュアンスを正確に把握した上で、この「えか!」を「訳語」として当てており、かつ、それにより岐阜弁臭さをものすごくアップさせていることに感心することしきり。きっと、頭のいい子なんでしょうね。

ちなみに、中国語でも方言萌えがあるようで、上海辺りでは、女の子の話す蘇州方言は最大の萌えなのだそうです。僕にゃ、どちらもほとんど分からないのですけど。

上のような方言がらみの動画を見ていて、結構僕のツボにはまったのは、鹿児島弁でした。イントネーションもさることながら、「…がよ」という言い回しに思わず萌え殺されたのでした。薩摩おごじょはかくありなん、という感じでしょうか。


…そういえば、我が家にも「方言彼女」ならぬ「方言鴨」がおります。
実家に電話したり、シンガポールのX嬢とスカイプで話すときなどには方言丸出しになるわけですが、これが全く萌えなくて。

聴いてて面白いんですけどね…四川方言。

2012年1月9日月曜日

新年かつ旧年

学校が始まりました。
久しぶりに見る友人に近況を聴きながらも、やっぱり先生が授業を始めると、それなりに授業に没頭でき、意外とスムーズに学生生活に戻れるのかな、と思いました(錯覚かもしれないけど。)。

それにしてもこの時期ってのは、特に小鴨と結婚してからは、新年なのか旧年なのかよく分からん変な気持ちにさせられています。というのも、旧暦で言えばまだ旧年で、中国では今こそが「年末」で人々の気持ちが完全年末モードだったからです。

中国の旧正月、ってのは、中国人にとって家族と過ごすべきとても大切な時期。都会に出稼ぎしている人を故郷に送り込む「春運」も1月になれば本格化します。バスや鉄道、そして飛行機で故郷に向かうのです。この時期は、例えば鉄道も大増発で、使い古したいわゆる「緑皮車」と呼ばれる客車も大活躍!人々は、こういった列車にたくさんの荷物を積み込んで、ともすれば二晩以上列車に揺られて(それもともすれば「硬座」と呼ばれる座席車で!)懐かしい家族に会いに行くわけです。

で、上海時代の我が家の場合は、先の記事にも書いたとおり、12月30日頃に日本に戻って日本の新年を僕の家族と過ごした後に1月3日ころ上海に戻り、しばらく上海で「あけましておめでとうございます。それではよいお年を」などと言った後、大体旧暦の12月30日に成都に行って、春節休みの大部分を小鴨の家族と過ごす、なんてことをやっていました。交通機関はやむなく飛行機。だって、鉄道だと30時間以上、1日目の夕方に出て3日目の朝につく計算になってしまうんですから!
この時期の飛行機は割引がほとんどないのですが、それでも成都行きの飛行機はいつも満席!加えて飛行機の中には中国の正月に流れる伝統音楽がBGMに流れ、人々もいつもよりハイテンションで延々おしゃべりを続けるのです。僕はよく上海発夜の9時過ぎの飛行機に乗ったものですが(成都到着は大体真夜中の12時頃)、そんなナイトフライトでも乗客は至って元気なために寝たくても寝られず、機内エンターテインメントなどあるはずもない飛行機で悶々としながら「早く着け、早く着け」と心の中でつぶやき続けておりました。

ともあれ、そういうわけでこの時期は、新年明けで、「よっしゃ、気持ちもリフレッシュ!今年も気合入れて頑張ろう!」という気合を見事に打ち砕いてくれる雰囲気が中国中に充満しているわけです。

さすがにここイギリスでは、そこまでの「新年かつ年末ムード」はありませんが、それでも今年の春節(23日―英国時間22日午後4時)にはせめてささやかなお祝いでもしようか(まあ、餃子を作る程度でしょうけど)と小鴨と言っているところですので、僕の中ではやっぱり少し変なムードであります。

…つーか、ただサボりたいだけか?

いやいや、今年の春節は、やっぱり祝わねばなりません。
そうでなければ、モンマルトルで余りかわいそうではないおじいさんから35ユーロで買ったアレを飾るチャンスがありませんから!(12月23日付記事参照)

そうそう、アレをブログでアップしたところ、小鴨の親友のシンガポールのX嬢と我が母親の両方から、「あの写真のどこに件のブツがあるのかしばらく分からなかった。…え、あれなの?」という反応。更にX嬢にはスカイプで現物を見せると、ご主人のJさん共々呆れ顔。そういえばスイスのE嬢とご主人のJさんも苦笑いしていたっけ。

まあ、少なくともネタとしては今のところ十分に働いてくれていますよ、例のアレ。

新学期が始まります…

12月10日から始まった冬休みも、今日で終わり。
このブログを書き終わるであろう時間は、もう、新学期開始日です。

この冬休みは、2週間すっぽり旅行に出かけていたということはあるものの、それにしても本当にあっという間に過ぎてしまいました。うーん、もっとじっくりと楽しみたかったのに…と後悔しても後の祭り。これからは、おそらく試験終了~論文提出まで、ひたすら勉強の毎日となるのでしょう。そして、このことを逆に言えば、僕のイギリス出国もより具体的な形で見えてきたということにもなります。それが、やっぱりもったいないような気がしてなりません。

でも、最近、まあ、いろいろありまして、なんだか仕事に復帰したいという気持ちも湧きつつあります。この1年、とりわけ前半は、そういった複雑な心理状態の中過ごしてゆくこととなるのでしょう。

ともあれ、そういう意味でも完全に自由な時間を過ごせる最後の日である今日(日曜日)、コロンビア・ロードにある花市場に行ってきました。
コロンビア・ロードとは、イースト・ロンドンにある通りで、毎週日曜日の朝8時から花市が立つことで有名です。小鴨がフラワースクールの同級生から聞くに、花の値段も割安だというので、一度見に行こうということになったのです。

イースト・ロンドンは、僕の大学の本部のある場所もそうなのですが、日本人の観光客が訪れるロンドンとはちょっと勝手が違うところかもしれません。ヨーロッパ以外からの移民や労働者階級の人が多く住み、治安はお世辞にも良いところではありません。街並みもどこか寂れていて、昼から酔っ払いのおっちゃんがふらふらしているという意味では、ちょっと(観光地化される前の)大阪の新世界の雰囲気に相通ずるものがあるかも。まあ、昼間であれば、基本的に問題ない場所なのですけど。

ともあれ、今回は、地下鉄ノーザン線でオールド・ストリートまで出て、そこから55番のバスを乗り継ぎハックニー・ロード/コロンビア・ロードで下車。そこから5分ほど歩いて市が立っている道に着きます。この場所は、ちょっと北に上がればベトナム移民が多く住んでいて、ロンドンのベトナム料理屋はこの界隈に多くあります(我々も以前来たことがあるので、このエリアは2度目ということになります。)。
バス停から市までの道は、おそらく1970年代から80年代に建てられたと思しきちょっと高層のアパートやら、それ以前に建てられた低層のアパートメントやらがあります。前者は、かつてはきっと最先端のデザインだったのでしょうが、それも今は昔。近未来的なコンクリートむき出しのデザインが今や廃墟的な雰囲気すら醸し出しています。一方、後者については、これがなかなかこじゃれたデザインではあるものの、決してきれいに使われているわけではありません。そう、ここは、典型的なイースト・ロンドンなのです。

で、市場。道の両脇にストールが並び、多くの人が集まっていて、なかなかの盛況です。


花もなかなか新鮮なものをそろえていますし、値段も確かにお手頃感が。下の写真でも、1束3ポンドと書いてありますよね。


そうそう、イースト・ロンドンについて、さっき僕はマイナスの面ばかり書いてしまいましたが、実は同時にロンドンで今もっともcoolな場所かもしれません。というのも、若手のアーティストやらが住み着いて、最新のロンドンのモダンアートの発信地になっているからです。そういうこともあってか、道の両脇にはなかなかおしゃれなショップが立ち並んでいて、小鴨は、花そっちのけでショップを一軒一軒漁ろうとします。僕は、それを適宜制止して本題(=花)に戻す役目に。

でも、ここ、今回訪れた限りではなかなかいい場所だと思いました。むしろ住んでもいいかな、と思わせるほどに。非常に庶民的な雰囲気、その中にあるアートな空間は、僕の住んでいる「中産階級」的街並みにはなかなか見られないもので、それがとても魅力的に感じられたからです。


で、こうやって音楽を演奏している横で子供たちが踊っている、なんて様子も、この街ならではなのかも。

そうそう、花市場はなかなか活気があったのですが、花売りのおじさんたちの陽気な掛け声もそれに一役買っていることは疑いようもありません。ただ、このおじさんたちの話す英語は、普通ロンドン中心部で聞く英語よりも分かりにくかったりします。それは、僕のリスニング力のなさもさることながら、コックニー(か、それに近い言葉?)を使っているからでしょう。でも、そういったおじさんの声がまたこの街の雰囲気にマッチしていて、雰囲気が良かったりします。そうそう、必ずしもコックニーだからというわけではありませんが、おじさんたちは、通貨の「ポンド」をpoundとは言っていませんでした。その代わりに、俗語として使われるquidを多用。「5ポンド」だって、"5 pounds" とは言わずに"fiver"です。こんな具合に。


動画の音は少し割れ気味で聞き取りにくいのですが、最初のおじさんは「何でも二束5ポンド!(Any two bunches for(←これは自信なし) fiver!)」と言っているようです。他でも、3束10ポンドとか、6束5ポンドとかいろんな売り声が飛び交っていました。

そして、僕らは10ポンドで花を3束買い、ついでに赤い鉢(9.5ポンド)も。そして(その一部を使って)出来上がった小鴨のプライベート作品。



ロンドンに日曜日にいる機会があれば、ここに足を運んでみるのもおすすめですよ。ちょっと違うロンドンの一面を垣間見ることができますから!

ちなみに最寄のバス停で一番便利なのは、上記のバス停。55番以外にもいくつか走っているようですが、番号は忘れちゃいました。でも、ノーザン線のオールド・ストリートからも15分くらいで歩けます。

2012年1月3日火曜日

AOCチキン

僕は結構鶏肉が好きで、多分肉類では一番好きかも。
なので、KFCはもとより、焼鳥も大好きで、なぜか焼鳥屋がとても多かった松山では、友達と定期的に焼鳥屋巡りをしたりしたものです。

とはいいつつ、僕自身に特段「○○の鶏肉に限るね、フフン」といったスノッブなこだわりがあるわけではありません。まあ、ごくたまーに比内地鶏とか名古屋コーチンとかを食べたら、「うん、なるほど、確かに旨い」ってことは分かりますし、それはそれで満足度が高いのですが、普通に売られているブロイラーでも、いちいちその味をくさすことはめったにありません。まあ、ストライクゾーンが広いといえばそうなのかもしれません。

翻って小鴨は、特に四川に比内地鶏のようなブランド鶏があるわけではないと思うのですが、「土鶏」という、まあ言ってみれば養鶏場の密集した環境で育てられていないような鶏がお好みです(というより、むしろ、「臭み」が嫌いなようです。)。まあ、僕と比べてストライクゾーンが狭いということにしておきましょう。

ともあれ、これまで食べた中で僕として「これはおいしい!」と思った鶏を3つ挙げろといわれれば、次のとおりになるでしょう。写真がないのはごめんなさい。

1 愛媛の旧肱川町(現在の大洲市)にある「ふかせ」の鶏
これは、松山時代の最後に上司に連れて行ってもらったのですが、愛媛有数の清流の肱川を臨む和風家屋の囲炉裏端で炭火で焼いて食べる地鶏の味は、旨みといい、歯ごたえといい、もう格別!僕の経験した限りでは、日本ではベストかな。
…この店、まだあるのかなぁ?

2 安徽省の西逓村の民宿で食べた烏骨鶏スープ
西逓村とは、黄山の近くにある、その街並みが世界遺産に指定されている古い村です。上海時代、この村にある民宿に泊まったのですが、その民宿のおやじさんが「120元出してくれるなら家族のために特別に育ててきた烏骨鶏を料理してあげる」といわれて作ってもらったものです。当然家で放し飼いの「土鶏」です。
そのスープたるや、これまで食べたことのない力強さ!!小鴨も僕も、鶏肉でこんな味があるものかとびっくり仰天でした。肉も噛み応え・旨みともに申し分なく、僕の経験上、中国での鶏の中ではこれが文句なしのベストワン。

3 海南省三亜の文昌鶏
ある年の国慶節休みにかの春秋航空で三亜に行ったときに、噂を聞いてやってきたお世辞にもきれいとはいえない食堂で食べたものです。注文すると、鶏が一羽丸ごと入ったアルミ製の無愛想な鍋が運ばれてきて、テーブルの上にあるコンロにドスンとセットされます。でも、味の方はなかなかすばらしく、88元という(中国の単品料理にしては)高額な料理ではあるものの、二人ではそれだけでもう十分で、上記の安徽省の烏骨鶏以来の満足度の高いスープでした。

いや、前置きが長くなりましたが、ここからが本題。

ヌーシャテル滞在中の26日、E嬢は自宅から車で10分ほどのところにある両親の家での親族一同での食事会に小鴨と僕を招待しました。E嬢の家族は、それぞれが自分の言いたいことをひたすら言い合うとてもにぎやかな家族で(その点では、小鴨の親族たちと似ているところもあるなあ、と思いました。)、完全な客人の我々に対しても熱烈歓迎モードです。いい意味でのフランスの田舎の普通の家族の雰囲気って感じかな。で、もちろん向こうはフランス語ですので、折に触れてE嬢の通訳が必要になるのですが、それでもいろいろ楽しく話をすることができました(僕も、向こうの会話の中で聞き取れたフランス語をキャッチして話に加わったりして、何気にフランス語のリスニングのいい練習だなと思いました。)。

で、そのときのメインディッシュが、鶏肉料理だったのです。
この鶏肉料理、僕がE嬢の甥のミカエル君(4歳)に電車ごっこのような形で家中延々振り回されている間に作られていました。


ミカエル君に振り回されるMimakiirihikoの図





E嬢のお母さんの写真と共に。
味付けは割とシンプルで、下味はバター、岩塩。これにエシャロット+ローズマリーやタイムといったハーブ類を加えただけ。これにジュラ産の白ワインをかけてオーブンで焼くこと30分。5分ごとにひっくり返して肉を白ワインになじませていました。


出来上がりの図。付け合せはポテトです。素朴な盛り付けがまた親しみを覚えさせます。

で、味の方なのですが、この地方共通の塩味の強い味付けではあるものの、鶏肉の味自体は見事の一言。むしろ塩味ベースであるがゆえに鶏肉の味が前面に出てきます。それでも、臭みは全くなく、肉自体の味わいは申し分ありません。肉の臭みにうるさい小鴨もこの鶏肉については絶賛を惜しみませんでした。

…そして、食べているときにE嬢のお母さんがこんなことを言いました。
「この鶏は、私の故郷(=フランス)特産のものでね、唯一鶏肉でAOC(※)が適用されているものなの。私の故郷では、鶏を良く食べるので、『この地方の人の体は鶏肉でできている』なんていうのよ。」

(※ご存知の方も多いと思いますが、念のために説明すると、AOCとは、「原産地統制呼称」というべきもので、つまり、厳しい条件をクリアしたものに限りその土地の産物と名乗ることができる、品質保証認証制度のことです。ワインやチーズなどでは良く見られますよね。例えば、ワインのボトルに、Appellation ○○(地名) Controleeって書かれているものがあるでしょ。あれです。)

そのときは、ゑゑっ!鶏肉にもAOCがあるの?という驚きとともに、AOCチキンならば、その味もむべなるかな、というところで留まっておりました。

でも、無知とは恐ろしいもので…
今、ネットでAOCチキンについて調べてみたら、果たしてE嬢ママのおっしゃるとおり、AOC指定されているチキンは世界でただ一つで、その名もブレス鶏(Poule de Bresse)! なんでもミシュランレストランでも提供されるレベルのフランス最高級ニワトリというではありませんか!で、更に調べてみると、仮に日本で買うとなれば、一匹(約1.5キロ)6000円以上!ちなみに、わが実家の近所のスーパーの新春初売り広告(今はこういったのもネットで見られるのがすごいですね!)では、青森産桜姫鶏のモモ肉が100グラム99円。つまり、ブレス鶏は青森産鶏の4倍以上する代物だったのです。

今回は、人数も多かったこともあり、E嬢のお母さんは、上の写真のとおり2羽焼いていました。日本で買うより安いのでしょうが、今更ながらE嬢の実家の皆さんに改めて申し訳なく、また、ありがたく思ったのでした。

2012年1月2日月曜日

慶祝、そしてスイスの写真

ここロンドンでも、2012年が明けました。
僕たちは結局行かなかったのですが、ロンドン中心部では12000発の花火が打ちあがり、最前列の人はそのために8時間待ちをしていたとか。BBCで見ていたのですが、なかなか見ごたえがありました。

そして今日。ささやかに正月の真似事をしました。
久しぶりのお餅やお雑煮も悪いものではありません。特に、この2週間の旅行で基本洋食だった分、和食のあっさりした味は本当にほっとするものです。

…考えれば、日本人が一番伝統に忠実な日本人になるのって、この正月前後のような気がしてなりません。特に、クリスマス・イブまでは、なんかきれいなイルミネーションの中で、音楽も洋風のクリスマス・ナンバーが流れているくせに、クリスマスを過ぎると途端に和風モードに急転換!まあ、コマーシャルサイドにはそれなりの思惑があるのでしょうが、我々の気持ち自体もやっぱり「お正月」ってのは、何かこう、日本人を「日本人」に回帰させる不思議な雰囲気があるんじゃないかな、って。

そして、僕は、そういったものを全く感じなくなって3年、また、余り感じにくくなって7年ほどになるでしょうか。「余り感じにくくなった」とは、上海駐在を始めて、帰国が12月30日頃、上海戻りが1月3日頃ということが続いたからです。昨日も少し触れましたが、やっぱり何かこう、さびしいな、という感じがしないわけではありません。でも、それは自分で選んだ道だし、その代わりになかなか得がたい経験も(おそらく)しているだろうし、ということで自らを慰めるしかないのでしょうね。

===
夕べ、旅行の写真をブログ用に編集しておこうと思い、スイスの部分だけをピックアップして圧縮したのですが、それでも50枚ほどになり、トホホ…といった感じです。
でも、この際ですので、一部をここでアップしておきましょう。

12月25日。僕たちは、ロイカーバート(フランス語:レーシュ・レ・バン)という、プレ・アルプスに抱かれた温泉町に出かけました。

ヌーシャテルは、それはそれはいいお天気で最高のドライブ日和!E嬢も、こんな天気はラッキーだというほどの真っ青な空です。


スイスの高速道路は無料かつなかなかよい整備状況。雰囲気は、坂のきつくない中央道か上信越道か、といった感じでしょうか。何となく日本の長野県辺りを走っているような感覚にもなりました。

車は、ヌーシャテル湖岸を南西に進んだ後、更に南に進路をとります。


正面の二つのこぶのような山は、E嬢の説明では「双子山」(←相撲とは関係ないよ!)というそうな。

…と、レマン湖が右手に見えてきました。雪を頂くスイス(orフランス)の山に抱かれた湖の色は、コート・ダジュールを髣髴させるほどの青さで、山の白のコントラストと相まって、絶景としか表現しようのない美しさです。こういったものが高速道路のサービスエリアから見えるのですから、贅沢きわまりありません。




その後、車は今度は西方向に進路を取り、シオンというところに入りました。E嬢によれば、ここら辺がスイスでももっとも豊かな場所の1つだとのこと。確かに日当たりもよく、ワイン用のぶどう畑もあたり一面に広がっています。


で、高速道路の終点からは、次第に上の写真にあるような山を登っていきました。と、道路標識がそれまでのフランス語からドイツ語一色に。そうです、我々は、スイスのフレンチ・パートからジャーマン・パートに入ったのでした。

そして、雪に覆われた森の中を元気に駆け上がってゆきます。


…そしてたどり着いたロイカーバート。あたり一面雪・雪・雪!!
まずは駐車場で車を止めて村はずれのレストランに足を運びます。車は入れず、雪道を歩くことに!




で、一応場所を確かめようと、クロスカントリースキーのいでたちで上ってきたおばちゃんにE嬢がフランス語で尋ねます。と、このおばちゃん、怪訝そうな顔をした後、"Non francais"と一言(※ほんとは、cの下にひげのようなものが付きます。)。果たしてこのおばちゃん、スイス・ジャーマンの人のようでした。で、E嬢は英語に切り替えて質問。おばちゃんも無愛想な英語で返します。九州ほどの大きさの国で、こんな状況があるってのも非常に興味深く思いました。


前を歩いているのが件のおばちゃんです。

で、たどり着いたレストランで、僕と小鴨は、地元のソーセージ料理を食べました。これがでかくて、かつ、美味!!ちなみにE嬢夫妻は、チーズフォンデュをチョイス。一口ご相伴に与りましたが、やっぱり本場はちゃうわー、と思ってしまいました。


ちなみにこのレストランのウエイトレスのおばちゃん、おそらくドイツ人だと思うのですが、E嬢がフランス語で話しかけたら完璧なフランス語で対応し、僕たちには僕たちより上手な英語でも話しかけてきました。観光地ゆえ必要に迫られてなのかもしれませんが、思わず脱帽です。これもスイスの奥の深さか?

お腹を満足させた僕たちは、いざ、ロイカーバートの街中を通り、温泉へ向かいます。



そして、温泉。
残念ながらカメラを持ち込めなかったので写真はないのですが、もう、これがすばらしいの一言に尽きます。
ヨーロッパの温泉は水着着用で、ここには屋内・屋外それぞれにプールのような温泉設備があるのですが、特に屋外のそれは、本当にプレ・アルプスの峰峰に抱かれ、ちょうど夕暮れの時間に当たっていたこともあり、言葉では言い表せないほど幻想的な風景でした。西から東にかけて赤から青へと変化する空のグラデーション、西日を最後まで浴びて赤く染まる雪の峰の頂、西に見える宵の明星と新月…。ハイジがフランクフルトであこがれていたスイスの景色はかくあるものか、とも思いつつ、日本を出て以来7年めったに入れず、特にヨーロッパに来てから全く入ることができなかった温泉を心の底から堪能したのでした。

温泉を十二分に楽しんで外に出ると、そこは、雪深いスイスの田舎の夜の風情。これもまた格別の興趣でした。




…そして、僕たちは、来た道を戻る格好で、夜の9時半、ヌーシャテルに戻ったのでした。
本当に楽しいスイス温泉紀行でした。

===

というわけで、最後になりましたが、今年も本ブログにお付き合いのほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます!
そして、震災の復興にいろいろな形で尽力されている皆様に、心よりの敬意と応援を表したいと思います。