2011年10月25日火曜日

本当にすごい人って。

ここ数か月、同窓生のメーリングリストへの招待が立て続けにいくつかあって、新たに参加しています。
1つ目は、今の大学(LLM)の日本人留学生のもの。まあ、これは流れで僕が立てたものですが。
2つ目は、中学・高校の同期のジェネラルなもの。これまでも、近しい友達同士で作っているメーリングリストがもう10年以上続いているのですが、それとは別に。
3つ目は、大学の合唱団の比較的近い年次のOBのもの。

…というわけで、わたくし、現在4つのメーリングリストに入っている、ということになります。

こういったMLを見ていると、かつての仲間は本当にいろいろな進路を進んで、30台も後半となれば、いっぱしのものも出てくるわけです。

で、JR最年少の駅長(松江駅)となった僕の合唱団の1つ上の先輩などは、失礼を省みずに言えば、そういった「いっぱしのもの」の一例なのでしょう。
この先輩、大学時代は、やはり同じく合唱団のメンバーとセミプロで漫才をやっていたりするなど、非常にバイタリティがある方なのですが、そういった華やかな表の顔だけでなく、学業もきっちりと修めていたようです。ちなみに、漫才の相方をやっていた方も、その実とても勤勉で、今では(その後の経緯により)在学時代の学部とは異なれど、社会に出てからのキャリアを生かす分野で母校の准教授に就任しているわけですから、やはりただ者ではありません。


…考えてみれば、本当にできる人、というのは、往々にしてそういった「両方の顔」をしっかり持っているように思うんですよね。だから人間としてバランスも取れているし、かつ、面白い。


そう思いつつわが身を振り返ると、僕自身は、「両方の顔」を持とうといろいろ努力したけど、結局中途半端な顔しか持てずにいるような気がしてなりません。まあ、それでも何とかやってはいけるのだけど、人間的な「輝き」はいまひとつだなあ、と思わずにはいられないのです。

ある時点で、「自分」を捨てきれなくなって、いつしか自分が心地よい領域に自己を規定してしまったような気がしてならない。そしてそれが自分自身の新たな「脱皮」を阻害している。そして、そういったことが頭では分かってはいるのに、「自分が規定してしまった枠」から抜け出すことができないでいる、そういったもどかしさにしばしばさいなまれてしまうのです。

…いや、そりゃ自分自身エキセントリックなところはありますよ。リスクの高い国家試験を受けたり、仕事でも普通とは違う特殊な分野を選択したり、海外に飛び出したり、外国人と結婚したり。どれもこれも、決して多くの人が好んですることじゃあありません。でも、僕から言わせれば、これらのいずれもが、対人関係において自分が規定した「枠」とは全く関係なく、結局この枠自体は変わらず維持されているんですよね。

まあ、自分自身の成長過程におけるいろいろな内的・外的要因がそうさせたのでしょうし、その中のいくつかの要素は僕自身も簡単に思い当たるところがあります。ともあれ、とにかく自分自身の「キャラ作り」に失敗したかも、という現実を受け入れつつ、それでもより人間として魅力が出るように自分を高めていかねば、とも思うのでした。


まあ、それはそうと、松江駅をこれからもよろしく!

2 件のコメント:

  1. いやー、Pさんは十分にキャラ立ってますよ。なんと言っても、P。

    まだ東京で燻っている亀より

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  2. いや、その、Pはア・プリオリなものでして…。

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