2011年5月8日日曜日

教養、って...

この間、ある人から、「mimakiirihikoさんのブログ、話題が広くて教養の深さを感じます」という趣旨のコメントを頂戴しました。そういっていただけることは、真の教養人に対してごめんなさいと思いつつも非常にありがたいことだと思いますし、できるだけ広く浅くネタを拾って行こうとするこのブログの目的の1つにも合致することなので、このブログをやってきた甲斐があるっていうものです。

でも、自分自身でいろいろなネタ(やそれにまつわる知識)をいつ知るに至ったのか、ということを考えれば、おそらくその大部分(感覚的には80%以上?)が大学に入る前までに得たものなんですよね。言ってみれば、僕の基本的な知識は、高校時代以来あまり進化をしていないというわけで、全くお恥ずかしい限りなんですよ。んで、大学以降は何をやっておったのか、ということにもなるのですが、僕の中では、結局、残り20%の知識の取得と、専門性への特化に費やしてきたんだろう、という結論に落ち着きました。実際、今こうやってイギリスに来ているのは、恐らく大学入試直前がピークだったと思われる英語のリカバリー+αに過ぎない訳なんですから。

いや、こんなことを書いて何を言いたいのか、というと、やっぱり若いうち(2、3歳から10代)までに吸収できるものは吸収しておくべきであり、その方法論として、一定の力技とも言える「詰め込み」は是である、というのが僕の経験的な信念である、ってことなんです。
いや、そりゃあ、「考える力」を養うことだって重要ですよ。でも、考える前に素材となるものがなければ考えようもないわけですし、素材が多ければ多いほどより新しいアイディアを得ることができる可能性だって広がるわけですし。
誰だったかな、あるノーベル賞受賞者が、子供の頃訳も分からずに丸暗記させられていた中国の古典がとても役に立っている、といったのは、まさに言い得て妙な話だと思いました。

そういえば、日本でゆとり教育なるものが導入されたことがありましたよね。僕の友人で大学の教員やってる奴が、ゆとり世代を教えるのは本当に大変だとぼやいたことがありましたっけ(まあ、大学が玉石混淆なのは今に始まった話じゃないけど、石の割合が増えたのでしょうね)。で、今はそれを是正する動きなんですって?僕の姪も、学校の教科書(学習指導要領改定前のもの)では内容不足ということで、副教材を併用している(た?)なんていう話もしていました。

でも、教養って、ただ多くのことを覚えているだけじゃ教養とは言えないのが難しいところ。いくらいろんなことを知っていたって、それを正確に使いこなせるようにならなければせいぜいクイズ番組で優勝するくらいしか役に立ちそうにないし(少なくとも合コンでは決して役に立つことはないでしょう。)。うん、例えば、天皇の名前を神武天皇から今上天皇に至るまで丸暗記したとしても、それが何やねん、いう感じかな。そういえば昔のクイズ番組で、「歴代天皇の名称(本名ではなく、いわゆる漢風諡号/院号)で一番文字数が長いのは誰か」なんて問題があったけど、その回答が後土御門天皇であると知っていたところで、現実世界じゃあ何の意味もないですよね。本当の教養は、じゃあ、後土御門天皇はいつ頃の人で、どんなことをしていたのか、というに関心を持って、それを知ることで更なる別の理解への糧とすることなんじゃないか(それこそが僕がさっき言った「使いこなすこと」ということになります。)、と思うんですよ。

だからね、ある東大出身の(そして、恐らくそれを自己のアイデンティティーの重要な要素としている)人に対して、「僕は中国哲学、特に老荘思想が好きなんです」ってことを言った時、その人が「老荘思想ってのは、無為自然だよな。ということはお前はいつもさぼりたいと思っているんだろう」と半ば決めつけるように返してきた(かつ、反論しても決して聞き入れなかった)ときは、思わずその人の教養を疑わずにはいられませんでしたよ。このpoor chapは、老荘思想については「無為自然」というキーワードだけ覚えていて、恐らく高校のときに一回くらい目にしたであろう「老子」や「荘子」の一節の内容について、「大学受験のために回答する」以上の理解をしようとしなかった(その上で、自分の知識の枠からはみ出すものも受け入れようとはしない)のでしょうね...

閑話休題。
ともあれ、教養を得るということは恐らく一生仕事なのだと思います。だからこそ、いろんなことを知ることはまた楽しからずや、ということなんでしょうけどね。

・・・中高時代は、僕の周りにはとにかく話題が豊富な連中が多く、そういう連中と学校の行き帰り等でいろいろな分野についてああだこうだと議論をしていたものです。その内容は、今から振り返れば青臭いものも多々あるでしょうが、そういう連中とまともな議論ができるように常に自分の知識をアップグレードしておく必要がありましたし、議論の上で得られた自分なりの結論(止揚されたものもあれば、論破され受け入れたものもありました。)は、恐らく僕の中で今も生き続けているのでしょう。

そういった時代が、いかに貴重であったかと思うにつけ、なんだかとても懐かしくもなるのでした。

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