海外暮らしを長くしていると、自分が日本人であることをいやでも強く意識するのと同時に、日本人としてのアイデンティティーを強く持たざるを得なくなるのは必定の流れであるのですが(なので、僕からすれば、「地球市民」とかのたまう輩は、本当に海外に住んだことのない連中の、空虚な理想論でしかありません。)、そんな中で、ふと、自分自身から「日本人らしさ」が抜けていっているんじゃないか、と感じることがあります。
うーん、例えば話し方とか。
僕の場合には、職業柄とか、嫁が外国人だからとかいう要因もなくはないのでしょうが、それよりもむしろ、完璧ではない外国語を話すときに一番気を使う、「とにかく自分の言いたいことを分かってもらう」という方向に表現方法が特化されて行きがちになる結果、日本語独特の言い回しがぎこちなくなることに自分自身ふと気がついて、ネイティブスピーカーとして思わずぞっとすることが少なくありません。
ここイギリスでも、またフィレンツェに行った時でも、「イギリス10年」、「イタリア7年」という日本人に出会ったのですが、そういった人は一様に日本語の言い回しが似ているんですよ。どうしてもバタ臭くなるというか…。そして、中国5年+1年(留学時代)、イギリス2年(予定)、将来も海外居住の可能性十分あり、となる自分自身も、きっとそうなっていく(又は既になっている)のでしょう。
だからこそ、日本語を読むということも、外国語を読むのと同じくらい大事なんじゃないか、と思うんですよね。自分の土台はしっかりと持っておかないといけないですから。
ほかには、日本人っぽい気の回し方とか。
日本人ってのは、周囲の状況から自己を規定する特性があるわけですが、これをあまり外国でやりすぎると、何もできなくなってしまうことは、海外旅行を1度でも経験されたことがある方ならお分かりになるはず。で、自分の主張を明確にすることが日常化してしまうと、普通の日本人から見れば、「何だあいつは自分の言いたいことばかり言いやがって」ということになるわけです。…僕としては、どっちが正しいのか分かりませんし、おそらく正解はないのでしょう。でも、(特に関西におけるコミュニケーションに顕著な)周囲の空気を読みながら自己の行動や発言をしていく、というのは、やっぱり奥ゆかしい感じがして、決して失いたくはないなあ、とは思うのですが。日本人として、そして、関西で生を受け、関西の影響を強く受けている者として。
あと、こうやって海外に長くいると、日本のしきたり、特に冠婚葬祭系のものに触れる機会はめったになくなり、あっても今は折に触れて親任せにしてしまいがちになっているので、そういったものに対して完全な「非常識人」になってしまっていることは紛れもない事実です。僕の知っている海外経験のある人の中には、「そんな合理性を欠く虚礼など無駄だからどうでもいい」と言って憚らない人もいるのですが、例えばそういった人が結婚式とかに出ると、たとえ功成り名を遂げた人であっても、やっぱり「浮く」というか、「お里が知れる」感じがするんです。文化に合理性を追求すればそもそも文化などなくなってしまうはずなので、そう考える人は無文化の世界(そしておそらくそれは無味乾燥な、人間的豊かさのない世界なのでしょう。)に行けばよいのでしょう。でも、僕としては、文化を大切にしたいと思っている以上、しかるべきときにはそういったものもちゃんとできる人になれればなあ、と思っているのですが…、道険し。
…そういった「困った」を抱えている僕ではありますが、「ああ、やっぱり僕は日本人だ」と思う瞬間もありますよ。
例えば、日本人と会って別れる時。普段は握手や、時には相手がそうする場合には、ヨーロッパ風に抱擁とか時によってはフレンチ・キスなんてものもするわけですが、これが日本人となると、自然とお辞儀をしてしまうんですよ。その角度と回数と独特の間合いは、おそらく遺伝子的にすら身に染み付いた行為なのでしょう。いとをかし。
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