2011年5月31日火曜日

芍薬

いや、前回は、ユーミンネタで余りにアツく書きすぎたなあ、と少し反省しています。
というわけで、気分を一新!

例のSwiss-FrenchのE嬢は、必ず居間に花を飾るのですが、最近、芍薬を買ってきました。
花の様子などが牡丹に似ているので、一瞬「あれ?」と思ったのですが、小鴨に「これは芍薬」と言われてああなるほどと。で、今Wikiで調べてみたら、果たして芍薬はボタン科の植物とのこと。いや、恥ずかしながら知らなかった…。

ところで、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」とは、大和撫子を美しく称えるときの言い回しですが、うん、芍薬の花は、華やかながらどこかしら凛とした雰囲気もあるよなあ、と改めて見て妙に納得。

以下は、この言葉からの随想です。

(1) 凛
…そういえば、去年の上海万博のとき、日本館のイベントホールで日本の伝統芸能の紹介(なお、司会進行役はかのデーモン閣下でした。)をしたことがあり、僕もそれを見に行ったのですが、そのときに琴を演奏した女性の方(確か有名なお琴のお師匠さんだったと思います。)が、演奏自体はもとより、着物の着こなしといい、演奏する姿といい、解説するときの話し方といい、とてもすばらしいものでした。僕は、それを見ながら「ああ、きれいな人だなあ」と思いつつ、「きれい」とか「美しい」という言葉が必ずしもこういった日本人女性の美を表すのに十分ではないのではないか、と思ってしばらく頭をめぐらせていましたが、はたと「凛」という言葉に至ったのでした。そして、まさにその方は、「凛として」いたのでした。

それからというもの、僕自身は、この「凛とした」という表現こそが、日本女性への最高の賛辞なのではないか、と思うようになったのです…。

(2) 牡丹
で、芍薬は確かに凛とした美しさがあってすばらしい花なのですが、僕が一番好きな花は、むしろ牡丹です。奈良の当麻寺のボタン園で初めて咲き誇るたくさんの牡丹を見たときの感激は、未だに忘れられません。静かに、でも華やかに、そして落ち着いて咲くその居住まいを見るにつけ、「座れば牡丹」という表現もむべなるかなといった感じでしょうか。
でも、牡丹を育てるのは難しいような気がします。一度、それこそ件の当麻寺で買ってきた牡丹を地植えにして挑戦したのですが、どうも冬の時の世話の仕方を間違ったのでしょう、春に花を咲かせることができず、結局枯らしてしまいました。またいつか日本に住むようになったら、また挑戦してみたいなあ…。

(3) 米朝一門、そして鶴瓶
中高のころ、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」をパロって、「立てば雀雀 座れば枝雀 歩く姿は小米朝」と言ってみたところ、妙に語呂がええなあ、と友達と言い合っていました。
でも、もう枝雀は世を去って久しいし、小米朝も今や米團治。もうこのギャグ(?)も通用しなくなっちゃったんですね。
そうそう、だいぶ前、youtubeで米朝の特集をやっているNHKのドキュメンタリーを見たのですが、かの米朝すら寄る年波に抗えなくなっていることに少なからずショックを受けました。一門、どうなって行くんかいなぁ…。

米朝一門とは全く関係ないけど、僕は個人的に鶴瓶は好みかも(いや、容姿とかじゃなくて、落語家として。)。まあ、それほど聞き込んだわけじゃないけど、昔見た「らくごのご」の三題噺などでは、ざこばの力技的な攻め方(いや、それはそれでいい味出しているんですよ)に比べて(比較の対象が悪いかもしれませんが)意外とスマートに纏め上げていたのがとても印象的で。うーん、日本に住んだら鶴瓶の落語もしっかり聞き込んでみたいなあ…。

ま、今日はそんなところで。芍薬にまつわるエトセトラでした。

2011年5月30日月曜日

ふと、ユーミン

なんか立て続けの投稿になっちゃってます。
ブログのネタのようなものは、日々結構頭をよぎっているのですが、日頃は何やかやとで書く暇がなく、このBank Holidayをいい機会に、頭にたまっているものを吐き出しておこうかと思って。

最近、なんとなくyoutubeを検索していたら、ユーミンの歌にヒットして、それからとても懐かしくなって、これを書きながらも耳にしています。実は、中高生のころから大学生前半くらいまで、ユーミンにどっぷりはまっていたんです。時期にしてバブル絶頂を境に前後3年間、足掛け6年くらいでしょうか。あのころは、それこそレンタルCDショップでユーミンのアルバムを借りてはせっせとカセットテープにダビングしていたものです。そして、真夜中に勉強しながらウォークマンで聴いていました。というわけで、そのころ僕が集めていたユーミンのアルバム、具体的には荒井由実時代の「14番目の月」から「Cowgirl Dreamin'」までならば、松任谷由実初期のアルバムのいくつかの歌を除いては今でも大体歌えるんじゃないかな、多分。

僕は音楽の専門的な素養が特にあるわけではありませんので、あくまでも感性的なものに過ぎませんが、僕が音楽がらみではまるときには、大体、「あ、音の重なり方が面白い」とか、「ベースラインの動きが面白い」とか、「編曲がマニアック」とかいうのがきっかけなのですが、正直、ユーミンの音楽に関していえば、音も編曲もおしゃれではあるものの、僕の中の「変わった物好き」を刺激するものでは決してありません(そうそう、「あ、このバックコーラスかっこいい」と思って聴いていたユーミンの「真冬のサーファー」って曲があるんですが、このバックコーラスをやっているのがかの音楽オタクの山下達郎。むべなるかな。)し、アルバムの中の楽曲構成パターンがなんとなく似たり寄ったりのところもあって、いくつか聴いているとそれが読めてくるという「単調さ」も否定できません。

なのに、どうしてあれほどはまったんだろう、ということをつらつら考えながら聴きなおしているうちに、自分は、そういったデメリットに替わって余りある「可視性」に魅かれていたのではないか、と思うようになりました。つまり、歌詞と音楽が一体となって、その世界がリアルに目の前に現れてくるような感覚に引き込まれていたではないかと。それは、ヒット曲に見られがちな「(歌詞への)共感」とか、「感情移入」とかとはまた違うもので、かつ、ユーミンの曲以外で余り感じたことがないものです。

まあ、そんな内省的な分析はここまでにして(いや、書こうと思えば書けるけど、きっと長すぎてつまらなくなっちゃいます。)、話を次に。

僕のユーミンはまり時代は、上記のとおり、大体1990年前後ということになるわけですが、このころは、ユーミン的には「ダイヤモンドダストが消えぬまに」から「天国のドア」に至る(セールス的には)絶頂期に当たります(かの有名な「リフレインが叫んでる」とか「ANNIVERSARY」とかは、この時代のものです。)。まあ、この時代の曲が決して嫌いなわけではありませんが、打ち込み過多で聴いてて疲れて(飽きて)しまいやすいのもまた事実。一方、荒井由実時代をリアルで知っている人からすれば、荒井由実時代を真っ先に挙げるのでしょうが、僕にとっては、見える「絵」が繊細な水彩画のようで、それに楽曲自体も「四畳半フォーク」のアンチテーゼとはいえ、共通の「根」が見える気がして、決してしっくり来るものではありません。
というわけで、僕が一番好きなのは、「時のないホテル」から「NO SIDE」辺りまでの80年代前半のアルバム群かな。結婚後の暗い時代から一気に見える世界が観念的な「絵」からリアルな「写真」になったような。そして、「時のないホテル」と「SURF & SNOW」という、全く対照的なアルバムが同じ年に出た、というのに至っては、もう「参りました」としかいいようがありません。

で、多感な時期であったからでしょう、それぞれのアルバムが、僕のいろいろな思い出と結びついてもいます。
例えば、「SURF & SNOW」。僕は、当時小倉に単身赴任していた親父の家に行くのに、独り大阪から出雲市に抜けて、そこから山陰本線の鈍行を乗り継いだことがあるのですが、その時このアルバムをウォークマンに入れていました。そして、このアルバムの中の「まぶしい草野球」のリズムがちょうどディーゼル機関車に引かれる客車のガタンゴトンという音にマッチしていました。なので、このアルバムは、車窓から見た美しい日本海の風景を思い出させるのです。

次に「VOYAGER」。ちょうど高三の春だったかなあ、吹田の万博記念公園で大英博物館展がやっていて、どうしてもそれを見たくて出かけたのですが、その時聴いていたのがこのアルバム。未来的・都会的な曲の「絵」が「大阪万博の夢の跡」と妙にマッチしていました。このアルバムを聴くと、今でもあのときの春の温かい光と風と日本人が描いた「未来」を思い出させます。

「PEARL PIERCE」。これは、東京に引っ越した後だと思うのですが、何かの用事で関西に行くときに、また気まぐれで東京から夜行で新潟に抜け、北陸周りで行ったことがあり、その際に聞いていました。朝早い新潟の駅で(新潟を舞台にしたものらしい)「私のロンサム・タウン」を聴くのもまた一興でした。

「TEARS AND REASONS」。92年11月発表のアルバム、ということは、僕のまさに大学受験準備真っ最中のときのアルバムです。それだけに、このアルバムもとてもとても思い入れが深いです。
…この時は、ちょうど家が奈良から東京に引っ越すことになっていて、CDデッキが既に梱包済みとなっていたなかなか聴けなかったところ、同じくユーミン党の友人(Nとしましょう)が自分がダビングしたのをくれて感激したっけ(高三の夏休みに肺炎で入院して夏休みをほぼ棒に振って以来、僕は大スランプに陥っていたのですが、これで立ち直りました。)。
そして、白眉は大学入試の当日。試験第1日目の国語の試験のあと、件のNが、ある論評形式の記述問題でこのアルバムの曲の1つを元ネタに書いたと、誇らしげに僕に言ってきたんです。そう言われて激しく対抗意識を燃やした僕は、第2日目の英語の試験で、指定語句付きの自由英作文を、「ユーミンのCDを買ってうんたらかんたら」というネタで書き、Nに自慢し返してやりました。幸いにして二人とも合格しましたが、この時のことは、今でもNと僕との間では語り草となってます。大学入試でユーミンネタを張り合った受験生もそうおらんやろ、って。

「THE DANCING SUN」。発売の翌年阪神大震災があって、その後もいろいろなことがあったことを思い出させます。特に、西宮の住宅街から見た(普段見えることの決してないはずの)六甲山のふもととか、京都の四条大橋とか。「Hello, my friend」が妙に哀しく心に響いていたなぁ。

…とまあ、それ以外にもいろいろあるのですが、多すぎて書けないや。
最後に、僕が一番好きなユーミンアルバム、といえば、「水の中のASIAへ」です。僕の越し方を振り返ってみると、結局、このアルバムの描いた4つの世界に一部は既に現実に飛び込み、また、他の一部はこれから飛び込むことになるのでしょう、きっと。

2011年5月29日日曜日

Be Japanese!

僕は、2005年8月に上海に赴任してから、帰省や出張のための一時帰国を除いて海外暮らしを送っています。いや、2005年は、上海赴任前に北京への長期出張もあったから、実際は2005年の前半以来の海外暮らしと言ってよいのかもしれません。

海外暮らしを長くしていると、自分が日本人であることをいやでも強く意識するのと同時に、日本人としてのアイデンティティーを強く持たざるを得なくなるのは必定の流れであるのですが(なので、僕からすれば、「地球市民」とかのたまう輩は、本当に海外に住んだことのない連中の、空虚な理想論でしかありません。)、そんな中で、ふと、自分自身から「日本人らしさ」が抜けていっているんじゃないか、と感じることがあります。

うーん、例えば話し方とか。
僕の場合には、職業柄とか、嫁が外国人だからとかいう要因もなくはないのでしょうが、それよりもむしろ、完璧ではない外国語を話すときに一番気を使う、「とにかく自分の言いたいことを分かってもらう」という方向に表現方法が特化されて行きがちになる結果、日本語独特の言い回しがぎこちなくなることに自分自身ふと気がついて、ネイティブスピーカーとして思わずぞっとすることが少なくありません。
ここイギリスでも、またフィレンツェに行った時でも、「イギリス10年」、「イタリア7年」という日本人に出会ったのですが、そういった人は一様に日本語の言い回しが似ているんですよ。どうしてもバタ臭くなるというか…。そして、中国5年+1年(留学時代)、イギリス2年(予定)、将来も海外居住の可能性十分あり、となる自分自身も、きっとそうなっていく(又は既になっている)のでしょう。
だからこそ、日本語を読むということも、外国語を読むのと同じくらい大事なんじゃないか、と思うんですよね。自分の土台はしっかりと持っておかないといけないですから。

ほかには、日本人っぽい気の回し方とか。
日本人ってのは、周囲の状況から自己を規定する特性があるわけですが、これをあまり外国でやりすぎると、何もできなくなってしまうことは、海外旅行を1度でも経験されたことがある方ならお分かりになるはず。で、自分の主張を明確にすることが日常化してしまうと、普通の日本人から見れば、「何だあいつは自分の言いたいことばかり言いやがって」ということになるわけです。…僕としては、どっちが正しいのか分かりませんし、おそらく正解はないのでしょう。でも、(特に関西におけるコミュニケーションに顕著な)周囲の空気を読みながら自己の行動や発言をしていく、というのは、やっぱり奥ゆかしい感じがして、決して失いたくはないなあ、とは思うのですが。日本人として、そして、関西で生を受け、関西の影響を強く受けている者として。

あと、こうやって海外に長くいると、日本のしきたり、特に冠婚葬祭系のものに触れる機会はめったになくなり、あっても今は折に触れて親任せにしてしまいがちになっているので、そういったものに対して完全な「非常識人」になってしまっていることは紛れもない事実です。僕の知っている海外経験のある人の中には、「そんな合理性を欠く虚礼など無駄だからどうでもいい」と言って憚らない人もいるのですが、例えばそういった人が結婚式とかに出ると、たとえ功成り名を遂げた人であっても、やっぱり「浮く」というか、「お里が知れる」感じがするんです。文化に合理性を追求すればそもそも文化などなくなってしまうはずなので、そう考える人は無文化の世界(そしておそらくそれは無味乾燥な、人間的豊かさのない世界なのでしょう。)に行けばよいのでしょう。でも、僕としては、文化を大切にしたいと思っている以上、しかるべきときにはそういったものもちゃんとできる人になれればなあ、と思っているのですが…、道険し。

…そういった「困った」を抱えている僕ではありますが、「ああ、やっぱり僕は日本人だ」と思う瞬間もありますよ。
例えば、日本人と会って別れる時。普段は握手や、時には相手がそうする場合には、ヨーロッパ風に抱擁とか時によってはフレンチ・キスなんてものもするわけですが、これが日本人となると、自然とお辞儀をしてしまうんですよ。その角度と回数と独特の間合いは、おそらく遺伝子的にすら身に染み付いた行為なのでしょう。いとをかし。

南海岸鉄道横断

イギリスは、この週末はまたもやBank Holydayということで、月曜日を含めた三連休です。
Bank Holydayというのは、ご存知の方もいると思いますが、まあ、祝日のようなものです。でも、もともとの意味は、文字どおり「銀行が休みとなる日」であって、「銀行が休み」⇒「経済活動ができない」⇒「よってみんなも休まざるを得ない」⇒「休日」といった連想ゲームの世界と聞いたことがあります。日本が祝日がやたら多い理由が「日本人は自分から休日を申請することをはばかる性質のため、国が強制的に休ませる」ことにあるという、嘘か本当か分からない話を聞いたことがありますが、休日に関する日英の労働者の感覚の違い、みたいのが感じられるような気がしませんか?

さて、そんな前置きはさておき、三連休に家に引きこもっているのもなんだか芸がない、ということで、どこか日帰り旅行をしようということにしたのですが、この間ヨーロッパ大陸旅行を敢行した身としては、ややおサイフの紐も締めたいところ。ということで、「地球の歩き方」をパラパラめくりつつ、鉄道会社のHPで安いチケットが出ているところがないかを探していたところ、ライ(Rye)という街まで往復一人20ポンドという、なかなかお値打ち感のあるチケットを発見、ここに行こうということを金曜日の夜に決定したのでした。

でも、ライまでの道のりは、乗り換え2回で合計4時間以上!場所としては、サセックス州ということで、ロンドンから真南のブライトンのまだまだ東。どちらかといえばドーヴァーに近い場所になります。なので、今日は思い切り早起きをして、朝の7時前の列車に乗り込んだのです。
ボーンマスから1回目の乗り換えのサザンプトンまでのオペレーターは、僕らも割となじみのあるSouthwestという鉄道なのですが、それから先は、Southという別の鉄道会社。この列車がかつて紹介したウェールズの大西部鉄道と同様、3両とか2両とかの短編成で、かつ、もううんざりするくらいたくさんの駅に止まります(要は、急行サービスがなく、各駅停車しか走っていないということですね。)。これじゃあ時間もかかるわけです。少し離れたところに座っていたイギリス人も、サザンプトンからブライトンまでの1時間40分ほどの行程のだいぶ後になって、「え~、まだあと6駅もあるの」などとぼやいていましたから、イギリス人にとっても実際うんざりな運行なのでしょう。

で、Southの列車は、相変わらずの汚さ。小鴨はトイレに行ってそのあまりの汚さにショックを受けていました。イギリスって、一見ちゃんとしているようで結構ちゃんとしていないことが多いのですが、鉄道の汚さはなかなかのものです(かつ、それをイギリス人たちが自虐ネタにしつつも一向に改善がなされないこともまたイギリスらしいところです。)。


座席も汚れっぱなし。手前の座席の正体不明な白いカピカピしたものは一体何なんだ!?
これでも、終着駅では、掃除のおばちゃんがごみを片付けてるんですよね。ちなみにその袋はごみで一杯になることは言うまでもありません。


車内。これは帰りの列車ですが、行きもこれと同様、サザンプトン―ブライトン間の座席はガラガラでした。で、時々おっさんやガキんちょが酒盛りをしていました。

まあ、4時間かけてライについたのですが、ライは、思った以上に小さな町でした。うん。確かに中世の面影を残す小石で舗装された道や小さい路地など、なかなか魅力的な町ではありましたが、2、3時間あれば基本アイテムは一通り見尽くせるほどの小ささです。加えて、今日は風がものすごく強くて肌寒く、なかなか観光に集中できなかったことも事実。
でも、普通の家々に至るまで、かわいらしく小物を置いてみたり、生垣を工夫しているなどしている点はとても興味深く、そういった意味でもイギリスらしい場所なのかもしれません。たとえば、こんな風に。






こう見ると、イギリスの植物を使ったデコレーションの必須アイテムは、バラのようにも思えますね。ただ、例えば我が実家のような典型的郊外型和洋折衷の一軒家には、しっくり来にくいんじゃいなかなぁ。それに、バラは虫がつきやすくて手間がかかるというし。

で、次の写真が、ライでは一番有名だという、マーメイド通りです。余り写真ではぴんと来ないかもしれませんが、道の両脇には瀟洒なホテルがあったりして、地味は地味ですが建物自体の魅力は無視できません。


で、一通り観光を終えた僕たちは、まだまだ帰りの列車までだいぶ時間があったので、ツーリストインフォメーションセンターで紹介された、ウィンチェルシーという近隣の村にいってみようということにし、バスがなかなか来ないこともあって、タクシーで訪れたのでした(チップ込みで7.5ポンドだったので、まあ許容範囲でしょう。)。
でも、このウィンチェルシー村、確かに観光地化されていない素朴な村なのですが、逆に言えばただそれだけ。加えて高台にあるので、強い海からの風がまともに吹きつけてきます。で、小鴨が寒くて耐えられないと言い出したために、ちょうどやってきたバスに乗ってライに戻ったのでした。よって、ウィンチェルシー滞在時間はおよそ10分。まあ、どこかの入場料のかかる建物に入ったと思えばよいか?

(なお、小鴨は、過日のヨーロッパ旅行で1500枚以上写真を撮ったこともあり、写真を撮る行為自体にやや食傷気味。今回は、30枚ほどしか撮っていないようです。)

その後、ライに戻った僕らは食事をしたり、店を冷やかしたりしたのですが、それでも時間が余って、結局予定より1時間早い列車で帰りました。
でも、この列車、ブライトン―サザンプトン間で、行きよりも停車駅が多く、結局この区間で2時間半かかりました。なので、帰りは、結局4時間半かかってしまったのでした。

で、今日の時間配分一覧。
移動(ボーンマス―サザンプトン―ブライトン―ライ):9時間弱
ライ滞在:5時間強
ウィンチェルシー滞在:約30分(往復の移動を含む!)

…うーん、こう考えると、今日の最大のアトラクションは実は鉄道だったってこと?
9時間で一人20ポンドならば、なかなかお得なアトラクションだったのかな?うん、そういうことにしましょう。

2011年5月23日月曜日

けったいなことに…

最近、複数の方から、「ブログにコメント書いたんだけどブログに反映されない」というご意見を私的に頂戴しました。

で、僕が自分自身にテストコメントを送ってみたのですが、これはうまくいくんですよ。
設定も確認したのですが、コメント対象者を限定しているわけでもなく、一体何が問題なのか、よくわかりません。なんともけったいな(=おかしな、奇妙な)ことです。

ともあれ、コメントが入りにくいのであれば、それはそれで再度の引越し(というか、出戻り?)も考えないといけないかも。でも、その場合には、中国から画像が見られないという問題もあるようで、痛し痒しといったところ。

まあ、ぼちぼち考えて見ますわ。

2011年5月21日土曜日

穏やかなボーンマスの週末

歳のせいなのでしょうか、旅行の疲労が到着の翌日の木曜日あたりはなかなかひどかったのですが、それも今は取れた…のかな?それでも今日は昼寝しちゃったけど。

というわけで、今日は、穏やかな自宅での週末です。
今日のボーンマスは、少し冷たい風が強かったものの、お天気自体はとてもよく、太陽の出る時間も今となっては朝の5時台から夜の9時までと、まあ長くなったものです。

僕たちの旅行中、かつてこのStudent Houseの女主人として大活躍していたSwiss-FrenchのE嬢が、スイスからまたもや復活し、早速Student HouseをE嬢仕様に調整していました。それは庭にも及んでいて、以前C嬢と小鴨がある事情から片付けたガーデン用のテーブルと椅子が具合よく並ぶようになりました。

で、今日は、余りによい日差しだったので、じゃあそこに座ってひと時を過ごすのも悪くはなかろうということで、PCを持ち出してみました。こんな風に。なかなか気分の良いひと時でした。


でね、昨日どうしてもワインが飲みたくなって、でも少し節約の気持ちも働き、結局3.99ポンド(500円くらい?)のロゼワインを買ったんですよ。前回の旅行では、ロゼワインで有名な(はずですよね?)プロヴァンスで1本飲んでは気分をよくしていたこともあってのチョイスなのですが、この3.99ポンドはなんとまあ「ブリティッシュ・ワイン」との由。イギリスのロゼたるやどんなもんかいな、という好奇心とその値段に引かれてレジに並んだ次第です。



で、これが件のワイン。飲んでみたのですが、今まで体験したことのないお味。

…というか、ま、まずい…


いやね、とにかくワインらしいぶどうの香りがそもそもしないんですよ。そう思って飲んでいると、なんだかこのピンク色が妙に毒々しく感じられるようになり、食紅で染めたんとちゃうか、と思わずにはいられないほど。とにかくワインのまずさという点では、僕が始めて記憶を飛ばした大学1年生のときのコンパで飲んだワイン(そのときは白でしたが)に匹敵するレベル。

それでも3.99ポンドをはたいたと思う気持ちと、この味にしばし(悪)酔いしれて見たいというマゾヒスティックな願望(?)とが相まって頑張って飲んでいるのですが、どうしても毎回2杯目から先に進めません。

というわけで、今現在もまだボトルに残っている次第。
Made in UKのアルコールについては、やっぱりワインをはずすのが賢明なのでしょうか…。

2011年5月18日水曜日

ボーンマス再び

というわけで、ボーンマスに戻ってきました。
今日は、朝の6時前のバスでピサ空港に行きました。時間の余裕を見るにしても3時間待ちは少し長すぎたかな(もう、小鴨が心配しすぎ!!)。
ピサ空港は田舎の小さな空港で、何もすることがありませんが、それでも我慢強く待つよりほかなく、結局10時半にボーンマス行きの飛行機はイタリアを後にしたのでした。

今回は、「空気以外は全て有料」の誉れ高き格安航空会社のライアンエアーを使ったのですが、シートはそのような企業戦略を反映してリクライニングなどはありません。でも、疲れていた僕らは、結構すぐ爆睡モード。そして気がつくと、北に向かう飛行機が海を渡り始めました。とうとう英仏海峡まで来たのでした。

その後しばらくすると、眼下は厚い雲に覆われるようになり、飛行機はその雲を掻き分けつつ高度を下げてゆきます。と、見慣れた緑の牧草地が曇り空の下に広がるのを妙に懐かしいと思う自分が面白いと感じている間に、ボーンマス空港に着陸したのでした。

その後は家に一旦帰り、予定どおり午後の学校の授業に出席することができました。
すぐに再開した「現実」ですが、それもそれでまたよし、ということで。なんか1週間休んだ分、英語をちゃんと勉強しなくちゃ、と思う気持ちにもなったのが面白いです。

ともあれ、文字ばかりであまり気の効いたことは書いていませんが、ともあれ無事に旅行を終えたことを、このブログにてご連絡します。

2011年5月17日火曜日

フィレンツェ最後の夜

とうとう今回の旅行の最終夜を迎えました。
今日もフィレンツェ滞在となったのですが、これまでの疲労が溜まっていたのでしょう、僕がややふらふら気味となり、そもそも美術館系のアトラクションにはやや食傷気味となっていたこともあり、今日の観光は控えめにして、昼は宿で昼寝していました。
それでも、午前中は、ミケランジェロのダビデ像を見て、思った以上に大きかったことにびっくりしました。でも、上記の理由からボッティチェリの絵を見れなかったことはやや心残りかな?

で、夕方近くになって体力を取り戻した僕らは、昨日夜景を楽しんだミケランジェロ広場まで再び足を運びました。
フィレンツェの街、本当にきれいでした。

で、その後は、やはり件の従姉妹が予約をしてくれた当地の家庭料理店に。これがまた本当においしくって、僕も小鴨も大満足。特にパン入りのスープとミートボールには、その味付けの妙に感嘆せざるを得ませんでした。

で、我が妻はというと、店ごとにあるおしゃれな商品にすっかり魅了されたご様子。イタリアに住みたいとか、絵を学びたいとか、色々なことを言い出しました。
...旦那の立場からは、ちょうど今がイギリスに戻る潮時なのかも知れません。
明日は朝早くフィレンツェを発ち、ピサからボーンマスまで直行のフライトで帰ります。なので、明日は飛行機さえ遅れなければ、午後からの学校に間に合ってしまうのです。
というわけなので、今日はもう寝ることにします。
次はイギリスから!

2011年5月16日月曜日

フィレンツェに着きました!

プロヴァンスから移動を続けて半日以上、今日の朝、フィレンツェに到着しました。
まずはアヴィニョンからの列車が40分遅れとなり、2回乗り換えた先の寝台列車に乗れるかどうかやきもきしましたが、結局何とかなり、ディジョンから無事ローマ行きの寝台列車に乗ることができたのでした。

列車の中のことはひとまず措くとして、1時間遅れの朝8時半頃フィレンツェSMN駅に到着、宿に荷物を置いて早速フィレンツェ観光です。フィレンツェについては既に経験者も多いでしょうから詳細は省くとして、全体的な印象は、僕には何となく京都を思い起こさせました。特に、古い街並みにさりげなくおしゃれな店があったりするところが。

今回のフィレンツェ滞在に際しては、イタリア大好きの僕のいとこの協力によるところ大で、今泊まっているホテルも彼女の紹介によるもの。古い館の一部のような雰囲気がとてもいい感じです。色使いも淡い緑が基調でとても落ち着きます。でもでも白眉はいとこが予約までしてくれたトラットリア。パスタしかり、モツ煮込みしかり、フリット(揚げ物)しかり、こんなふうな味になるんだと驚きの連続でした。これからイギリスでイタメシが食えるだろうかと不安になってます。
そして宿への帰り道、ドゥオーモの近くのある場所で、10人くらいの学生が宗教歌を歌い出し、そのきれいなこと!多少心得がないわけではないわたくしめとしては、一緒に歌いたかったなぁ。
芸術と街とが何らの違和感もなくとけあっているのがなんとも素晴らしいと感じたフィレンツェの夜なのでした。

2011年5月14日土曜日

アルルの***

さてさて、アルルへの日帰りショートトリップから戻ってきました。
結論としては、予想以上に充実度が高かったです。そもそもアルルに対するイメージは、「アルルの女」と単なるプロヴァンスに対する一般的イメージ以上の何者でもなかったわけですが、あにはからんや、ローマ時代以来の遺跡が残る由緒正しきプロヴァンスの田舎町だったのです。
いや、話せばきりがありませんが、なんとなく上海の近郊で見た水郷を彷彿ともさせ、また同時に店で売られていた浮世絵ポストカードがプロヴァンスの雰囲気と何らバッティングしないのが面白くもあり。印象派の画家がなぜプロヴァンスに惹かれ、また同時に浮世絵に惹かれたのか、ここに来てみてなんとなく共感できるようにも思いました。

明日はアヴィニョン市街を散策し、その後夕方の列車でフィレンツェに向けて移動します。リヨン、ディジョンと乗り継いで最後は寝台列車に。ルートを見る限り、スイス経由のアルプス越えとなるようです。ちょっと時間はかかりますが、それはそれで結構楽しみでもあります。

というわけで、次はフィレンツェからかな?。

アヴィニョンです

昨日の深夜、南仏はアヴィニョンに到着しました。
パリでの滞在は、本当に充実の一言に尽きます。ヴェルサイユがあれほど見ごたえのあるところだとは思いませんでしたし、ルーブルも然り。モンマルトルの丘から見たパリは見事でしたし、夜のエッフェル塔も...。いや、詳細はこの携帯からでは書き尽くせないのでこのくらいに。ともあれ、昨日の11時半ころにアヴィニョン入りしたわけです。
もう若くはない僕たちはちょっとお疲れきみ。でも元気です。今日は遅めに宿を出てアルルに行こうと思ってます。

緯度が下がるにつれて湿度が高くなってきて、日本の気候に似てきた感じがします。

さあ、プロヴァンスの風に吹かれに行こうか。

2011年5月10日火曜日

ただいまセントパンクラス駅です!

今、ロンドンの駅でパリ行きの列車を待ってます。
何してるんだって?

ヘヘ、今から大陸初体験旅行に出かけます。1週間程の日程でイタリアとフランスに。
PC を持っていくのは大変だといういいわけをしつつ、ついついスマートフォンを買ってしまいました。この記事もスマホからなのですが、感想としては、やはり完全にはパソコンの代替にはならないな、ということです。確かにメールもチェックできたりして便利なんですけどね。まあ、慣れるまでにはもう少し時間かかりそうです。

ともあれ、長い時間書くのはしんどいので、今はこのくらいに。

行ってきまーす!

2011年5月8日日曜日

教養、って...

この間、ある人から、「mimakiirihikoさんのブログ、話題が広くて教養の深さを感じます」という趣旨のコメントを頂戴しました。そういっていただけることは、真の教養人に対してごめんなさいと思いつつも非常にありがたいことだと思いますし、できるだけ広く浅くネタを拾って行こうとするこのブログの目的の1つにも合致することなので、このブログをやってきた甲斐があるっていうものです。

でも、自分自身でいろいろなネタ(やそれにまつわる知識)をいつ知るに至ったのか、ということを考えれば、おそらくその大部分(感覚的には80%以上?)が大学に入る前までに得たものなんですよね。言ってみれば、僕の基本的な知識は、高校時代以来あまり進化をしていないというわけで、全くお恥ずかしい限りなんですよ。んで、大学以降は何をやっておったのか、ということにもなるのですが、僕の中では、結局、残り20%の知識の取得と、専門性への特化に費やしてきたんだろう、という結論に落ち着きました。実際、今こうやってイギリスに来ているのは、恐らく大学入試直前がピークだったと思われる英語のリカバリー+αに過ぎない訳なんですから。

いや、こんなことを書いて何を言いたいのか、というと、やっぱり若いうち(2、3歳から10代)までに吸収できるものは吸収しておくべきであり、その方法論として、一定の力技とも言える「詰め込み」は是である、というのが僕の経験的な信念である、ってことなんです。
いや、そりゃあ、「考える力」を養うことだって重要ですよ。でも、考える前に素材となるものがなければ考えようもないわけですし、素材が多ければ多いほどより新しいアイディアを得ることができる可能性だって広がるわけですし。
誰だったかな、あるノーベル賞受賞者が、子供の頃訳も分からずに丸暗記させられていた中国の古典がとても役に立っている、といったのは、まさに言い得て妙な話だと思いました。

そういえば、日本でゆとり教育なるものが導入されたことがありましたよね。僕の友人で大学の教員やってる奴が、ゆとり世代を教えるのは本当に大変だとぼやいたことがありましたっけ(まあ、大学が玉石混淆なのは今に始まった話じゃないけど、石の割合が増えたのでしょうね)。で、今はそれを是正する動きなんですって?僕の姪も、学校の教科書(学習指導要領改定前のもの)では内容不足ということで、副教材を併用している(た?)なんていう話もしていました。

でも、教養って、ただ多くのことを覚えているだけじゃ教養とは言えないのが難しいところ。いくらいろんなことを知っていたって、それを正確に使いこなせるようにならなければせいぜいクイズ番組で優勝するくらいしか役に立ちそうにないし(少なくとも合コンでは決して役に立つことはないでしょう。)。うん、例えば、天皇の名前を神武天皇から今上天皇に至るまで丸暗記したとしても、それが何やねん、いう感じかな。そういえば昔のクイズ番組で、「歴代天皇の名称(本名ではなく、いわゆる漢風諡号/院号)で一番文字数が長いのは誰か」なんて問題があったけど、その回答が後土御門天皇であると知っていたところで、現実世界じゃあ何の意味もないですよね。本当の教養は、じゃあ、後土御門天皇はいつ頃の人で、どんなことをしていたのか、というに関心を持って、それを知ることで更なる別の理解への糧とすることなんじゃないか(それこそが僕がさっき言った「使いこなすこと」ということになります。)、と思うんですよ。

だからね、ある東大出身の(そして、恐らくそれを自己のアイデンティティーの重要な要素としている)人に対して、「僕は中国哲学、特に老荘思想が好きなんです」ってことを言った時、その人が「老荘思想ってのは、無為自然だよな。ということはお前はいつもさぼりたいと思っているんだろう」と半ば決めつけるように返してきた(かつ、反論しても決して聞き入れなかった)ときは、思わずその人の教養を疑わずにはいられませんでしたよ。このpoor chapは、老荘思想については「無為自然」というキーワードだけ覚えていて、恐らく高校のときに一回くらい目にしたであろう「老子」や「荘子」の一節の内容について、「大学受験のために回答する」以上の理解をしようとしなかった(その上で、自分の知識の枠からはみ出すものも受け入れようとはしない)のでしょうね...

閑話休題。
ともあれ、教養を得るということは恐らく一生仕事なのだと思います。だからこそ、いろんなことを知ることはまた楽しからずや、ということなんでしょうけどね。

・・・中高時代は、僕の周りにはとにかく話題が豊富な連中が多く、そういう連中と学校の行き帰り等でいろいろな分野についてああだこうだと議論をしていたものです。その内容は、今から振り返れば青臭いものも多々あるでしょうが、そういう連中とまともな議論ができるように常に自分の知識をアップグレードしておく必要がありましたし、議論の上で得られた自分なりの結論(止揚されたものもあれば、論破され受け入れたものもありました。)は、恐らく僕の中で今も生き続けているのでしょう。

そういった時代が、いかに貴重であったかと思うにつけ、なんだかとても懐かしくもなるのでした。

2011年5月7日土曜日

決断

いやはや、9月から通う大学について、とうとう最終的に(僕の中で)決定しました。
Queen Mary, University of Londonというところです。
この大学、知名度という意味では例えばオックスフォードとかケンブリッジとかには及びませんが、法学の分野では(少なくともイギリスの中では)最近評価が上がってきていること、そして、学生の満足度が高いことが決定の主たる理由です。

色々ネットで漁ってみると、学生の中には、「学生の満足度なんて所詮主観的なものじゃないか」とくさすコメントもありましたが、そこは純粋な学生と僕のような社会人を一定年度やってきた人とは感覚が違うのかもしれません。というより、確かに博士号などを取ろうとするのであれば、より学術的な側面を重視する必要があるのかもしれませんが、大学院における授業主体の学習の場合には、どれだけ学校が満足度の高いサービスを提供できるのかというのが重要な要素となるのでしょう。そして、僕の場合には、紛れもなく後者となるわけで。

そうそう、別途オファーをもらっていた、世界的に高い知名度のある学校には、その高過ぎる語学のrequirementについて、サマースクール条件で僕の今の語学の成績で何とか認めてもらえないかというメールを流したところ、木で鼻をくくったような回答があり、その内容がおよそ僕のメールの趣旨をちゃんと理解した上での回答ではないことにむかついて、「ああ、ここじゃあ色々面倒かもしれない」と思ってこれ以上のアクセスをやめることにしました。

ともあれ、自分の母校を決める作業っていうのがこんなに悩ましいものだとは思いませんでした。それぞれの学校がそれぞれに魅力がありましたし、僕自身これらに明確な優劣を設けていなかった分、決定にはかなり迷ったところもあります。
思い返せば、中学受験のときは、第一志望がはっきりしていたので選択自体に何の迷いはありませんでしたし、大学受験に至ってはそもそも1校しか受けていないので、複数の選択肢から学校を選ぶというのは、これが始めての経験だったんです。

ともあれ、大学を決めたからには、あとはそこで何を得るかが大切なことなので、心して取り組まねば!