2011年7月17日日曜日

複数言語環境

人種の坩堝と化しているここロンドンでは、本当に世界のいろいろな国の人を眼にします。
中国系はチャイナタウンに行けばそれこそ中国語が標準語か、と思うくらい(まあ、広東語のほうが通じやすそうなんですけどね)ですし、インド人もわんさか。黒人も普通に街を歩いていますし、この間水周りの修理に来たお兄さんはポーランド人。その他僕が知らないだけで、ほんとに世界のいろいろな国から人が集まっているのでしょうね。実際、街を歩いていると、聞いてそれとわかる中国語、フランス語、ドイツ語はもとより、「この言葉一体どこのやねん」と突っ込みたくなる言葉をしゃべっている人も少なくないわけで。

日本人の普通の生活じゃあ余り考えることがないのですが、ここに来て感じるのは、2つ以上の言語を使う生活、というのは、ここに来るときわめて普通のことである、ってことです。つまり、家族やそれよりもやや広いコミュニティで使う言語と、その外で使う言葉とが異なっていることは全く珍しくないってことですね。
まあ、そりゃ日本でも、例えば関西弁と共通語をTPOによって使い分ける、なんてことは僕でも普通にやっているわけですが、それでもそれはあくまでも同じ「日本語」の範疇であり、たとえ100%関西弁に切り替えたとしてもコミュニケーションそれ自体に何ら支障がないわけですよね。中国語にしても、確かに共通語とその他の(漢族系統の)方言(例えば上海語とか広東語)とは、意思疎通が不可能なほどに違うわけですが、中国人にとっては、その全てがあくまでも「中国語」という認識なわけで、方言の違いが(それ自体は政治的に規定された概念であるとしても)「中華民族」(ないしは「漢族」)というまとまり自体に影響を及ぼすものではありません。

でも、イギリスにおける複数言語環境というのは、それとは全く違うような気がするんです。つまり、言葉が違えば民族的バックグラウンドが(相容れない程度まで)異なることを意味するわけで、そういった根本的に異なるバックグラウンドを統合するベルトのようなものとして英語が存在するように感じられるのです。

…いや、これは当たり前なことをやたら難しく言っているだけなのかもしれませんが、この感覚は、日本でも中国でも感じたことがなかったものだったので、ちょっとうだうだ書いてみました。
でも、こういう言語環境ってのは、欧米ではむしろ普通なのかもしれませんね。



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