2013年6月11日火曜日

Missa Pange Lingua

ミサ・パンジェ・リングァといえば、少しヨーロッパのルネサンス期の音楽をかじったことのある方(といってもそれ自体が相当ニッチなわけですが)なら誰でも知っているといっても過言ではない、ジョスカン・デ・プレの傑作です。
僕も確か大学1年の夏合宿のある夜に先輩からウォークマンで聴かせてもらったと記憶していますが、Kyrieの本当に最初のフレーズ(おもむろに入ってきたカウンターテナーが上昇音階をたどっていく所)でその美しさにいきなり鳥肌が立つような衝撃をうけ、その後のChriste eleisonの部分での緊張感を伴った音の重なりに完全にノックアウトされました。ま、後者の「緊張感」は、聴かせてもらったパンジェ・リングァがかのドミニク・ヴィス率いるクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのもので、ヴィスのあのカウンターテナーの音がよりそれを増幅させたのかもしれませんが。

ともあれ、パンジェ・リングァというのは、どのルネサンス・ポリフォニーのミサ曲よりも高貴なもので、その意味で「禁断の曲」であるかのような感覚が僕たちの中にあったような気がします(もっとも、東京の男声合唱界の重鎮の一人にまつわる「遠慮」のようなものもあったとも聞いていますが、真偽のほどはわかりません。)。

で、僕は、ステージで歌えないのなら、せめてスコアが手に入ればなあ、と思い続けていたのですが、さりとてまじめに探したこともなく、なんとなくそのまま卒業してしまい、その後は仕事をし、結婚をし、中国やら英国やらに住み、合唱はといえば上海で少し復活したもののその後また封印している・・・といった状態でスコアのことなどすっかり忘れてすごしてきたわけです。

…ところが、その間(約20年弱)の期間のネットの進歩というのは実にありがたいもので、いまやYouTubeで「スコア付パンジェ・リングァ」が聴けるじゃありませんか!それも、その音はかつて僕に強烈なパンチを浴びせてくれたクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのものに間違いありません。ひとまずKyrie とGloria分のURLを紹介しますね。



で、今晩は、これに夢中になってしまったのでした。やっぱりスコアを見ながら各パートの音を聞いていると、いろいろな発見があり、ただなんとなく聞くよりは断然面白いものです。「あ、あそこはあんな動きをしていたんだ」とか、「このパートとこのパートがこんな掛け合いをしていたんだ」とかね。
特にCredoの"Pleni sunt coeli..."からのカウンターとアルト(といってもカウンターの1つ下の男声実声の一番高いパートのことね。)の掛け合いの最後のgloria tuaの部分など、パート間で異なる拍子で歌われていたことなど、(既に知っている人からは「いまさら何を」と思われるかもしれませんが、)僕にとっては楽しい「発見」であるとともに、一度は歌ってみたいなあ、と思わせるには十分でした。幸いなことに(?)僕は上記でいうアルトかカウンターをやっていたので、(巧拙を別にすれば)どちらでも対応できると思うけど、どちらかといえばアルトをやってみたい(ちょっと職人的なところに惹かれる)と思ったのでした。

…そう、音楽、って、甘美なんだよね、僕にとって。今の僕にはもったいないくらいに。

先日、僕の期の前後数期くらいの人が、OB合唱団のステージを1つ拝借してトマス=タリスのエレミア哀歌を歌うので、参加しないかというメールがありました。タリスのエレミアといえば、僕が大学1年の時の定期演奏会のメインの曲で、自分のパート(Tenor1)なら全曲(第1部及び第2部の両方!)を今でもほとんど暗譜で歌え、かつ、だいぶ前にこのブログでも書いたように、雨宿りに入ったボーンマスのカトリック教会で一人歌ったりした曲なのです。当然、心が動かないわけがありません。送られてきたスコアをダウンロードしてプリントアウトしてみれば、懐かしい音符が飛び交っていて、それとともに、あの頃のいろんな甘美な思い出があふれかえってきました。

でも、そんな甘美さをどこか拒絶する自分もあるのです。なんか、その世界に戻ることが「怖い」と感じるこの感覚…。そして、その感覚が僕の中で意外と大きくて、すぐに「参加します!」というメールが出せずにいます。

僕は、大学を卒業して以来、常に自分自身に変革を与えようとしていて、その意味で過去を振り返らず「現実を生きる」ことに邁進してきたと思います。ただ、もしかしたらそれをやや徹底しすぎたのかな…。過去を決して否定はしないけど、それに立ち返ることは今の自分を否定することになると潜在的に思っているのだろうか?

甘美な過去からの「誘い」は、意外に苦しい。
それでも、YouTubeでついついパンジェ・リングァやエレミア哀歌をヘビロテしている自分がここにいるのでした…。

2013年5月26日日曜日

八百万の神

以前、「日本は神の国」発言で結局辞任にまで追い込まれた首相がいましたね。
ま、これもマスコミの一種の揚げ足取りだという話もあるとかないとか。でも、それはこのブログではどうでもいい話。

ロンドンに住んでいた頃、イギリスやその他のヨーロッパの国を巡っていると、どんな街にも必ず大体中心に教会があって、これって、言ってみたらお寺や神社がどの町にもあるようなもの(それが街の中心にあるかどうかは別にして)かなあ、と思ったことがあります。

でも、よーく考えてみると、どの街にもあるこういう教会は、結局キリストと一体のものとされる神(三位一体説を採りましょう。)のためのものなんですよね。まあ、キリスト教が一神教である以上、そういうことになるわけですが。ついでに言えば、ユダヤ教のシナゴーグも、イスラームのモスクもそういう唯一神(うーん、又○イエスじゃないよ!)のための宗教施設なので、こういった宗教が支配的地位にある地域では、宗教的には、その地域はそういうただ1つの神がprevailしているという考え方がメジャーになるのかな、と思うわけです。

翻って日本。僕もそうだけど、神道と仏教を同じレベルで尊重している人がマジョリティーな世界です。でも、これって、世界的にはかなり変わった宗教観かもしれません。実際、ヨーロッパでヨーロッパ人にもムスリム系の人にも、「え?どういうこと!?」とびっくりされたことがあります(ま、ある人には、「八百万の神」をそのまま"8 million Gods"といってしまったのもまずかったのかもしれませんが!!)。
で、特に神社がそうなのですが、一見おんなじような形(鳥居があって社殿があって云々)であっても、「ご祭神」が神社ごとに異なるのが上記の教会やモスクとは根本的に違いますよね。日本ではきわめて自然なことであっても、よく考えればこれってかなり面白いなあ、と改めて思うに至った次第です。

というわけで、この週末、またなんとなく車で出かけたくなって、ここはひとつ明治以前から「神宮」と呼ばれていた3つの神社(神宮)の1つ、香取神宮に行ってみようと思い、実行しました。小鴨は花屋バイトなので、僕一人でね。

三号渋谷線→湾岸線→東関道と高速を飛ばすこと1時間半ほどでやってきました千葉県は香取市。インターを降りると程なく到着です。
さて、修理中の大鳥居から参道に入ると、マイナスイオンたっぷりの森!
気温も適度で、快適なこと限りなしです。そして、どことなく厳かな雰囲気も漂います。この感覚、例えば伊勢神宮なんてすごいわけですが(なんか空気自体が違う感じ!)、香取神宮もなかなかのものです。



で、歩くこと数分で、社殿付近に到着。まずはお清めしましょう。



なんか気が引き締まりますね。この感覚、なんかすきなんです。

で、社殿に入ろうとするのですが・・・



社殿(上の写真では、門の奥)は、あいにく修理工事中で網がかぶされています。
でも、ちゃんと神事は行われていて、僕も二礼二拍手一礼で参拝。
なお、鹿島神宮のご祭神は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。「天照大神のご神勅を奉じて国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を果たされた建国の大功臣」(香取神宮のご由緒書から)とのことです。歴史学的にはただの伝説で研究の対象にならないのかもしれませんが、過去にあった何かの事実(又は実在の人物?)がこのような神様の存在として記憶に語り継がれているんじゃないか、それならば一体何があったのか、と想像するだけで気持ちがわくわくしてしまいます。

それにしても、ここは成田空港からも更に東の利根川沿いの水郷地帯。
なんでこのようなところに、非常に古い、それも「神宮」と呼ばれるほどの格式の高い神社が存在するのか(ちなみに、この地域はもう1つの「神宮」である鹿島神宮もそれほど遠くないところにあります。)、と思うにつけ、1500年から2000年ほど前のこの地域とは一体どのような場所であったのか、という疑問が湧いてきてしまいます。これこそ古代史のミステリー!

・・・なんか、中高生の頃の僕が戻ってきたような感じだな。
古墳やそれにまつわる日本古代史にどっぷり浸かって、将来は橿原考古学研究所に行きたいとすら思っていたあの頃の。

ともあれ、この地域、今もなお豊かな水郷地帯。この写真のような。



米を作り、その土地で信仰されている神にささげる…その営みは形こそいくらかは変わっていても、本質は同じなんだろうな、と思います。

八百万の神のまします国に戻ってきたんだな。僕は。


2013年5月19日日曜日

なんちゃってリア充

facebookユーザの中には、自分がリア充であることを頑張って見せようと見栄を張る人もいるとかいないとか。
それをやっても逆に虚しいだけなんとちゃうん、と思ったりするわけですが、まあ、それはその人なりの事情があるのでしょうから、これ以上詮索しますまい。

でも、類友というのか、僕を含めた古い友達まわりはこれを逆手にとってやろうと思う奴もいるわけで、なんちゃってリア充的写真をfacebookに上げたりするわけです。だからと言って面白いわけでも何でもないんだけど。

ともあれ、先週はまあいろいろと仕事関係で気分がもやもやすることが多く、テンションはかなりダウン気味でした。そのせいか、木曜日は実際体調を少し崩してしまったり。
で、こうなると、何をするにもめんどくさい状態になってしまいがちです。それではいかん、という気持ちもあり、また、少し車を動かして海を見に行きたいという衝動もあり、午前中にジムに行ったあと自宅に戻って一人で焼きそばを作って食べて(小鴨はロンドンで花に目覚めて今は花屋でバイトをしてます。で、5月はずっと週末はバイトです。)、新婚さんいらっしゃい(うーん、この30年変わらぬ日曜の昼下がりだ!)が終わりかけたところで逗子に向けて出発!自宅から1時間ちょっと車を飛ばして海辺の某所に到着。

で、ある喫茶店で480円のアイスコーヒーを注文した後、おもむろに広げたのはタイ語の勉強資料!初心者のくせにちょっとめんどくさい資料を読むことにチャレンジしているので、予習をせねばなりません。
まあ、僕自身が普段取り扱っている分野の事項でもあるし、一応いろんな日本語の資料から内容的には概要はわかっているのですが、これをタイ語の記載内容そのままに理解するということとは全く別の問題。片っ端から辞書(でもね、タイ日辞典はあまりいいのがなくて、今一番よく使っているのはタイ漢辞典。これ、半端なくすごい!!)を引きまくって見ても、今ひとつ僕が知っているその箇所の内容と一致しないのです。文法構造自体はベトナム語に似ているはず(語彙は悲しいくらいに違いすぎるけど)なのに・・・。

というわけで、480円のコーヒー一杯で2時間ちょっと粘り、でもあまり読み進められず(まあ仕方ないけど)、来た道をまた戻ってきたのでした。

一見リア充に思われそうな「海辺の街のカフェでの午後」。実際はなかなかの苦行なのでした。それでも、久しぶりに海を見られたことは気分は良かったですけどね!


2013年4月6日土曜日

本当に、お久しぶり。from東京 復活の巻

さてさて、ドバイからのブログを書いて以来何か月振りでしょうか!
あれが8月の下旬だったから、7か月半振りですね。

ブログってのは一旦書かなくなると、なんかめんどくさいというか、日常の別のことに気を取られてしまってついつい後回しになりがちですよね。そうやってこのブログを消滅させるのもなんか癪なので、きっと誰も見ていないとは思うけど、再開することにします。

そうだな、日本に戻ってきてからの僕は、帰国翌日に家を探して契約し(ま、事前にある程度根回ししていたわけではありますが)、オフィスに戻ってなし崩し的に仕事に巻き込まれ、留学で得たものの裏で失った(仕事上の)ものの大きさに打ちのめされそうになりながらも新機軸を模索するようになり・・・という具合でなんとかここまでやってきました。
それにしても、7年間日本での生活の基盤がなかったということは、つまりその間に普通の人なら持っているべきものを全く持っていなかったということを意味するわけで(それに7年前は独身、今は既婚者!)、完全私費留学帰りのおサイフには至って厳しい出費があまたありました。それこそ家具や家電から始まり、最後はクルマまで買ってしまいました(まあ、クルマはおまけのようなものですが。)。

帰国してしばらくは、日本で生活することそれ自体に違和感があって、一時帰国的な気分から抜け出せない状態が続きました。生活のすべてが日本語だけで処理できてしまうことについてもなんだか変な感じがしてなりませんでした。最近かな、ようやくそんな違和感が薄れてきたのは。

ともあれ、これからも(留学時代のような頻度はないと思いますが)折に触れて書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします!

2012年8月21日火曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その2)のはずが・・・

いや、留学の最後は心置きなく完全フリーの時間を過ごすつもりだったのに、なんか職場への正式復帰日以前から、というよりは帰国翌日から(=家すらなくそれを探し出す日から)なし崩し的に仕事やその他の雑務が入ってきていて、それのことや、復帰前に処理すべき諸々の事項に関連する雑務を処理しているうちにこんな時間(今はドバイ時間の2時前)になってしまいました。

一体何やねん、と嘆きたくなりますが…。

ほんとはいろいろと今日の出来事や雑感を書きたかったのですが、時間も時間なので、概略を書いておきます。

朝起床。朝食をとる。
11時頃、ブルジュ・カリファの横のショッピング・モールに行ってみる。噂にたがわずでかいし、世界のブランドは一通りそろっている。

15時前に戻り、メールを見てブルーに。

15時半頃、食事もしていなかったので、なんちゃらクラブのアフタヌーンティーを食べる。でも、次の予定までの時間が短く、まさにgrabという言葉が似合う優雅さのなさ。

16時半、砂漠サファリツアーに出発。トヨタのランドクルーザーが大活躍!いや、その過酷なオフロードツーリングは中途半端なジェットコースターよりも面白い。食事も悪くなく、ベリーダンスのおねーちゃんの豊満だけど鍛えぬいたお腹にセクシーさよりもむしろ男前を感じる。砂漠で見る満点の星は申し分なし。久しぶりに見た天の川。ちゃんと視認できた南斗六星。夏の大三角が天頂に輝き、アラビア語由来の星の名前をアラブで見るという小粋さにちょっとうっとり。

22時ホテル戻り。ロンドンで買って砂漠サファリに履いていってしまった新品のスエードの靴に油染みを発見、小鴨に怒られまくる。それでも「俺の金で買うたんじゃ」と逆切れしつつ(でも心で半泣きになりつつ)やけくそででかいバスタブに湯を張って入浴。FTを読み始めるも、先に手をぬらしてしまっていたがために新聞がぶよぶよになる。

入浴後、コーヒーを飲みながらメールベースでの各種雑務を処理。現在に至る。

今日はこのくらいにしておきますが、最後に一言。
砂漠からの帰り、ドバイの街並みが近づいてくると、その高層ビル群は、本当に砂漠に立ち上る蜃気楼のようで、幻想的ですらありました。
でも、こういった繁栄は、もしかしたら本当に蜃気楼のようなものなのではないか、仮に30年後にここを立ち寄ってもまだこのような繁栄を謳歌し続けているのだろうか、と思わずにはいられませんでした。
いや、それはドバイに限った話ではないのですが、急速な発展というのは、どこかもろさのようなものを感じずにはいられないのです。それは、単なる嫉妬なのでしょうか、それとも本質なのでしょうか?

うーん、眠い、寝るぞ!

2012年8月20日月曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その1)

ちょうど24時間前、僕らはロンドンを後にしました。
ヒースローでは、エミレーツ航空の今まで経験したことがないほどの手荷物重量の厳しさにやられてしまい、空港で更に荷物を捨てたり、見送りに来てくれたE嬢夫妻にあげたりと大騒ぎだったのですが、とにもかくにもドバイ行きEK004便に乗り込みました。

EK004便はかの総二階建てのエアバスA380。でも、機内はいくつかの区画(Zone)に分かれていて、1つのZone自体はそんなに大きい印象を与えないのですが、それでも、飛行機が加速を始めて離陸をする時のゆったりした感じ(というか「よっこらしょ」という感じは、ここ2年ヨーロッパでの移動でお世話になっていたエアバスの短通路型の飛行機の必死にギュイ~ンと上昇する感覚とは全く違います。たまにゃこんな飛行機も悪くないな、と思ったわけです。

でも、機内では、なぜか寝ることが出来ず、そうだな、1時間半ほどうとうとしたくらいかな。
飛行機は、ロンドン→パリの北→ブリュッセル→プラハの近く→アナトリア半島→バグダッド→バスラと飛び、朝の6時半、ドバイに到着。7時間弱のフライトなので、ちょうど日本からシンガポールに行く距離のようなものです。そう考えればイギリスと中東、かなり近いですよね。意外とびっくり。

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さて、今回ドバイに寄ったのは、たまたま日本に買える片道切符が一番安かったのがドバイ経由のエミレーツ便だったことに加え、ただ乗換えだけじゃ面白くないのでストップオーバーをしてみようという、全くの偶然の産物です。それでも、留学の最後はちょっとゴージャスに決めようと思い、思い切って5つ星のホテルを取りました(ま、ドバイにゃ7つ星もありますけどね。ちなみに、その宿泊代を今回の飛行機の料金にプラスしても、ロンドン―東京直行便片道二人分の料金よりも安かったはず。)。その名もラッフルズ・ドバイ。シンガポール・スリングで有名なシンガポールのあのホテルのドバイ支店です。
以前シンガポールに行った時、ラッフルズ(のおみやげ物屋)に寄ったのですが、その風格を目の当たりにして、「いつかはこのホテルに見合う自分になりたい」と思ったものでした。もちろん経済力も含めてね。
それから数年。決してそのような風格に見合うだけの自分になったとはいえないのですが、英国での生活を経て、また、物理的にも少し齢を取り、加えて、シンガポールのそれよりも宿泊料金が安かったこともあり、一度このホテルに泊まってみよう、ということにしたわけです。で、予約は、僕が論文やら試験やらでばたばたしたこともあり、小鴨が手配しました(もちろん料金については僕の決裁事項でね。)。

…で、僕らがグランド・フロアに入ると、どうも小鴨が手配したそれはなんちゃらクラブとかいうエグゼクティブ向けのものだったらしく、丁重に10階に通されると、寝不足で疲れた顔をしている二人にはそれはそれは丁寧なチェックイン手続+専従のバトラーによる部屋の説明がありました。ヨーロッパでは、B&B的旅行をし続けてきた我々にとってはややお尻がむずがゆくなるような丁寧さと快適さではありましたが、こういう雰囲気の場数を踏むこともまた人生において必要だ、なんてことを言い合う貧乏性の二人なのでした。
それでも、英語が少しは出来るようになった甲斐は、こういった場所でも感じることができます。というのも、相手の英語での応対にこちらもそれなりに自然なコミュニケーションができるという「安心感」が、こういうハイソなシチュエーションでも決して怖気づかない度胸のようなものを与えてくれたような気がするから。

でもね、ホテルも含め「高級」であるってのは、案外不自由だな、って思いました。それは、こんな話。

夕方外出して夕食を食べようと思い、1階のコンシェルジュに「どこかいい店はないか」と聞いたのです。これは、僕らがヨーロッパで得た経験の1つで、宿の人に近所の安くてうまい店を聞くと、彼らが紹介するそれらは余り間違いがなかったのです。というわけで、そうすることが習慣になっていたのです。
果たして、ラッフルズのコンシェルジュはいろいろと店の名前を挙げてくれたのですが、いずれも高級感+いい雰囲気の店ばっかりで、僕らが求めているような店ではありません。なので、僕は、「僕らが一番重要なのは味であって、雰囲気や高級感はあまり重要視していない。そういったレストランでお勧めのところはないか」と聞いたら、コンシェルジュのガブリエルさん(おそらく本名はジブリールさんなんでしょうね。)は困った表情を浮かべ、

「当ホテルは5つ星ホテルでございますので、お客様にご紹介するべきレストランも相応のものとならざるを得ないのです」

なんてことを言うのです。ほんとはガブさんにだって自分のお気に入りの店とか絶対あるはずなのに。ま、こんなリクエストをする客などはまずいないかもしれないのだけど。

で、結局ガブさんが勧めてくれたある別の5つ星ホテルの最上階っぽいところにあるレストランに行ったのですが、そのホテル自体上海にもあるアメリカ系ホテルチェーンで、レストランの雰囲気は上海のそのホテルの56階か何かにあるイタリア料理屋のような雰囲気と変わりません。加えて食事はブッフェスタイル。味は決してまずいわけではないのですが、僕らが今までヨーロッパ旅行で経験した「感動」からははるかに遠いものでした。うん、これならどこでもあるよね、って。

ちなみに、そのホテルには、ラッフルズのベルボーイが手配してくれたハイヤー(メータータクシーじゃないんですよ!)で向かうという、日本でもしたことがない贅沢さ。これも貧乏性の二人にはお尻がむず痒くなる所業ですが、まあ、今回くらいバブリーでもいいじゃんと互いを慰めます。でも、この運ちゃん自体はなかなか気さくな人で、そのホテルの近くにある市場を指してこんなことを言ったのです。

「これは魚市場だよ。カタール辺りからのお客にどこかうまいところはないか、と聞かれたら、俺はよくここを紹介してるよ。ここでは魚を買ってどう料理するかを指示して食べることができるんだ♪」

とのたまうではありませんか! 運ちゃんも英語がやや怪しいので、僕らの質問の趣旨を聞き間違えているかもしれないのですが、もし運ちゃんの言うことが正しければ、我々の求めているものはむしろそういうものであったわけで…。

で、(コストパフォーマンスを含めて)不満の残る夕食を終えてその周りの下町っぽいところをふらふらした後ホテルに帰ったのですが、タクシーがなかなか捕まらなかったこともあり、最近出来たばっかりでピカピカの、でも客がいなくておそらく赤字必至の(でもそんなのこの国では関係ないんでしょうね。)地下鉄に乗りホテルに戻りました。でも、この種のホテルに泊まる客なんてそもそも公共交通機関など使わないんでしょう。そういえば、チェックインのときも、「そういえばこの近くにも鉄道の駅がありますよね。それで行けば安くなるんじゃないですか?」と僕が言ったら応対していたホテルの人が「あんた、そんなのに乗るの?」って感じでびっくりしたような顔をして、「乗り換えなどもあったりして面倒なので、タクシーの方が便利ですよ。」と言ったのが印象的でした。ともあれ、全身に汗かいてホテルに戻ってくると、クーラーがしっかり効いたロビーではみんな涼しげな顔で歓談しています。豪華かつ居心地のよい部屋に戻ると、ふんだんに使い放題の真水のホットシャワーで汗を流し…。

今日に限って言えば、ドバイの印象は、どこか「伸び行く中国の最先端都市」を髣髴とさせるようなものでした。そしてふと思わずにはいられなかったこと。


「豊かさ」とは何だろう?

…この都市であと48時間ほど考えてみようと思います。

2012年8月19日日曜日

ロンドン最後の夜

ほんと、ものすごく間隔が空いてしまいました。
この間何をしていたかを要約すると、
・5月の末に試験が終わった。
・6月の初旬にスペイン(バルセロナ&グラナダ)に1週間ほど旅行し、ガウディの建築群とアルハンブラ宮殿とすばらしきスペイン料理に感動。
・スペインから戻ってきてからは論文をひたすら書き続ける。当初はメインでない論点でもたつきまくり、その後も遅々として進まない状態が続き、7月頭で3500語/15000語。その後もとにかく調べて書いてを繰り返し、昼と夜とが逆転しながら7月26日にとりあえず形を作る。但し2000語オーバー。その後は削除しながら推敲を繰り返すが、直せども直せども誤りが見つかり半狂乱に。
・論文の一方で、とある新しい言語の学習を始めたが、論文が忙しくなりすぎて1か月でギブアップ(これはこれからの継続案件となります。)。
・8月2日に論文提出を予定し、かつ、一応の形が出来上がったように見受けられたものの、今一度形式面のチェックをする必要があると思い、もともと予定していた8月3日から8日までのローマ・リスボン旅行に論文も連れて行く。結局、昼は観光、夜は論文推敲となったのだが、貫徹1回、超深夜帯睡眠複数回と、仕事顔負けの状態に。それでも出てくるわ出てくるわのミステイク。
・ヘロヘロになりながら8日にロンドン戻り。その夜も4時頃まで格闘。翌朝もまだ基本的な部分でのミステイクが発見されたりしながらも、とりあえず全部見たということで製本→押し付けるようにして提出。
・提出したその足でグリニッジに行って、オリンピック馬術のドレッサージュ決勝を観戦。すっかり腕を日焼けする。
・翌10日は、ロンドンにやってきた職場の同僚とカーディフにフットボール男子3位決定戦を観戦。君が代を心を込めて歌い応援に臨んだものの見事な敗戦。周囲にはこれだけのために日本からやってきたマジもののサポーターたちがいて、「日本代表のために命を賭けている人たち」が本当にいることを改めて確認した。弾丸ツアーだったので、ロンドンには深夜2時戻り。
・11日からはスイスのE嬢夫妻が我々の見送りのために来英。続けて12日には台湾のC嬢夫妻(新婚旅行!)が来英。以後、6人が一つ屋根の下すごすことに。
・そうは言っても引越しの準備をしなければならず、こちらもあたふた。
・そのくせ2度目のオペラ座の怪人などを見てしまったりする。
・そのくせ15-16日、みんなでボーンマスに行って語学学校の先生やスタッフと会ったりして、その上1泊したりする。
・17日にフラットをクリーニング業者に明け渡し、我々はリッチモンドのフラットに移動。リンゴの木のある庭の風情は申し分ないが、前日寝冷えした僕は激しい下痢に悩まされる。
・18日、元のフラットを正式にチェックアウト。お世話になった日本人の美容師のところで最後のヘアカットをし、リッチモンドに戻ってみんなで夕食をして今に至る。

うーん、こう並べてみても本当にいろいろなことがありました。でも、やることが多すぎてブログを書く気力がなかったのでした(まあ、フェイスブックには時折書き込んでいましたけどね。)。

でも、2年の留学も、これが本当に最後の夜となりました。
明日の夕方、僕たちはロンドンを発ち、ドバイでストップオーバーして、23日に成田着です。

最後の1週間は、E嬢・C嬢夫妻と一緒でなかなかしみじみとロンドンの最後を味わう時間はありません(今もありません)が、それでも、今日は精一杯最後のロンドンを目に焼き付けようと、美容院からリッチモンドに戻る途中、ホルボーンで下車して大学の辺りなどを少しふらつきました。確かに自分はこのロンドンの街に足跡を残したのだと、自らの足元を確かめつつ。

それにしても、この2年間の留学は、僕たちにとても大きいものを残してくれたように思います。
もう、それは「体で感じるもの」であって、なかなか言葉では言い尽くせません。
ただ1つ言えることは、今がイギリスからアジアに戻るちょうどよい潮時だということ。そうでなければ、ロンドンを本当に離れたくなくなってしまいそうで。

来る前のイギリスに対する僕のイメージは、「老いた大国」で、大英帝国の遺産を食い潰しつづけている国、というものでした。そして、それはある一面では正しいとも今でも思います。
でも、イギリスはそれと同時に、「常に新しいものを生み出そうとする、ビート感のある国」であるということも感じずにはいられません。特にロンドンは。この国、意外に(?)クリエイティブなのです。そういったイギリスの奥深さに魅力を感じずにはいられない生活でした。

そして、自分の生き方についても、いろいろ考えることも多かったかな。そして、得られた結論は、「やっぱり僕には『攻める人生』しかないのだろうな」ということでした。40も近くなれば、人間往々にして守りに入るのが普通ですし、僕自身も今回の留学までが自分の人生の「インプット期間」であって、後は自分のある環境の中でそれを守る人生を送るべきだと考えていました。

…でも、それは、僕には当てはまらなかったようです。

どうも、この留学は、何かの終わりではなく、これからの始まりのための出発点(ないしは準備作業)のようなものだったようでした。
これからも僕は、やっぱり自分の可能性を求めてただただ積極果敢に攻めていけるだけ攻めるしかないようです。これに関しては、決して楽な人生ではないだろうな、と思いつつも、それしか道がないのだと、もう覚悟は決めました。

ずっと間隔が空いた分、思ったことの3割も書けていませんが、それでもかなりの長文になってしまいました。
明日の朝は荷物を再整理して、空港に行って、友人たちと別れを交わすことになります。

ロンドン最後の夜。
横で既に眠りに落ちている小鴨の顔を見ながら、改めてこの留学の成功を、ささやかに、でも、確信を持ってここに宣言いたしましょう。

ありがとう、イギリス。
また会おう、ロンドン。