2013年6月11日火曜日

Missa Pange Lingua

ミサ・パンジェ・リングァといえば、少しヨーロッパのルネサンス期の音楽をかじったことのある方(といってもそれ自体が相当ニッチなわけですが)なら誰でも知っているといっても過言ではない、ジョスカン・デ・プレの傑作です。
僕も確か大学1年の夏合宿のある夜に先輩からウォークマンで聴かせてもらったと記憶していますが、Kyrieの本当に最初のフレーズ(おもむろに入ってきたカウンターテナーが上昇音階をたどっていく所)でその美しさにいきなり鳥肌が立つような衝撃をうけ、その後のChriste eleisonの部分での緊張感を伴った音の重なりに完全にノックアウトされました。ま、後者の「緊張感」は、聴かせてもらったパンジェ・リングァがかのドミニク・ヴィス率いるクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのもので、ヴィスのあのカウンターテナーの音がよりそれを増幅させたのかもしれませんが。

ともあれ、パンジェ・リングァというのは、どのルネサンス・ポリフォニーのミサ曲よりも高貴なもので、その意味で「禁断の曲」であるかのような感覚が僕たちの中にあったような気がします(もっとも、東京の男声合唱界の重鎮の一人にまつわる「遠慮」のようなものもあったとも聞いていますが、真偽のほどはわかりません。)。

で、僕は、ステージで歌えないのなら、せめてスコアが手に入ればなあ、と思い続けていたのですが、さりとてまじめに探したこともなく、なんとなくそのまま卒業してしまい、その後は仕事をし、結婚をし、中国やら英国やらに住み、合唱はといえば上海で少し復活したもののその後また封印している・・・といった状態でスコアのことなどすっかり忘れてすごしてきたわけです。

…ところが、その間(約20年弱)の期間のネットの進歩というのは実にありがたいもので、いまやYouTubeで「スコア付パンジェ・リングァ」が聴けるじゃありませんか!それも、その音はかつて僕に強烈なパンチを浴びせてくれたクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのものに間違いありません。ひとまずKyrie とGloria分のURLを紹介しますね。



で、今晩は、これに夢中になってしまったのでした。やっぱりスコアを見ながら各パートの音を聞いていると、いろいろな発見があり、ただなんとなく聞くよりは断然面白いものです。「あ、あそこはあんな動きをしていたんだ」とか、「このパートとこのパートがこんな掛け合いをしていたんだ」とかね。
特にCredoの"Pleni sunt coeli..."からのカウンターとアルト(といってもカウンターの1つ下の男声実声の一番高いパートのことね。)の掛け合いの最後のgloria tuaの部分など、パート間で異なる拍子で歌われていたことなど、(既に知っている人からは「いまさら何を」と思われるかもしれませんが、)僕にとっては楽しい「発見」であるとともに、一度は歌ってみたいなあ、と思わせるには十分でした。幸いなことに(?)僕は上記でいうアルトかカウンターをやっていたので、(巧拙を別にすれば)どちらでも対応できると思うけど、どちらかといえばアルトをやってみたい(ちょっと職人的なところに惹かれる)と思ったのでした。

…そう、音楽、って、甘美なんだよね、僕にとって。今の僕にはもったいないくらいに。

先日、僕の期の前後数期くらいの人が、OB合唱団のステージを1つ拝借してトマス=タリスのエレミア哀歌を歌うので、参加しないかというメールがありました。タリスのエレミアといえば、僕が大学1年の時の定期演奏会のメインの曲で、自分のパート(Tenor1)なら全曲(第1部及び第2部の両方!)を今でもほとんど暗譜で歌え、かつ、だいぶ前にこのブログでも書いたように、雨宿りに入ったボーンマスのカトリック教会で一人歌ったりした曲なのです。当然、心が動かないわけがありません。送られてきたスコアをダウンロードしてプリントアウトしてみれば、懐かしい音符が飛び交っていて、それとともに、あの頃のいろんな甘美な思い出があふれかえってきました。

でも、そんな甘美さをどこか拒絶する自分もあるのです。なんか、その世界に戻ることが「怖い」と感じるこの感覚…。そして、その感覚が僕の中で意外と大きくて、すぐに「参加します!」というメールが出せずにいます。

僕は、大学を卒業して以来、常に自分自身に変革を与えようとしていて、その意味で過去を振り返らず「現実を生きる」ことに邁進してきたと思います。ただ、もしかしたらそれをやや徹底しすぎたのかな…。過去を決して否定はしないけど、それに立ち返ることは今の自分を否定することになると潜在的に思っているのだろうか?

甘美な過去からの「誘い」は、意外に苦しい。
それでも、YouTubeでついついパンジェ・リングァやエレミア哀歌をヘビロテしている自分がここにいるのでした…。

2013年5月26日日曜日

八百万の神

以前、「日本は神の国」発言で結局辞任にまで追い込まれた首相がいましたね。
ま、これもマスコミの一種の揚げ足取りだという話もあるとかないとか。でも、それはこのブログではどうでもいい話。

ロンドンに住んでいた頃、イギリスやその他のヨーロッパの国を巡っていると、どんな街にも必ず大体中心に教会があって、これって、言ってみたらお寺や神社がどの町にもあるようなもの(それが街の中心にあるかどうかは別にして)かなあ、と思ったことがあります。

でも、よーく考えてみると、どの街にもあるこういう教会は、結局キリストと一体のものとされる神(三位一体説を採りましょう。)のためのものなんですよね。まあ、キリスト教が一神教である以上、そういうことになるわけですが。ついでに言えば、ユダヤ教のシナゴーグも、イスラームのモスクもそういう唯一神(うーん、又○イエスじゃないよ!)のための宗教施設なので、こういった宗教が支配的地位にある地域では、宗教的には、その地域はそういうただ1つの神がprevailしているという考え方がメジャーになるのかな、と思うわけです。

翻って日本。僕もそうだけど、神道と仏教を同じレベルで尊重している人がマジョリティーな世界です。でも、これって、世界的にはかなり変わった宗教観かもしれません。実際、ヨーロッパでヨーロッパ人にもムスリム系の人にも、「え?どういうこと!?」とびっくりされたことがあります(ま、ある人には、「八百万の神」をそのまま"8 million Gods"といってしまったのもまずかったのかもしれませんが!!)。
で、特に神社がそうなのですが、一見おんなじような形(鳥居があって社殿があって云々)であっても、「ご祭神」が神社ごとに異なるのが上記の教会やモスクとは根本的に違いますよね。日本ではきわめて自然なことであっても、よく考えればこれってかなり面白いなあ、と改めて思うに至った次第です。

というわけで、この週末、またなんとなく車で出かけたくなって、ここはひとつ明治以前から「神宮」と呼ばれていた3つの神社(神宮)の1つ、香取神宮に行ってみようと思い、実行しました。小鴨は花屋バイトなので、僕一人でね。

三号渋谷線→湾岸線→東関道と高速を飛ばすこと1時間半ほどでやってきました千葉県は香取市。インターを降りると程なく到着です。
さて、修理中の大鳥居から参道に入ると、マイナスイオンたっぷりの森!
気温も適度で、快適なこと限りなしです。そして、どことなく厳かな雰囲気も漂います。この感覚、例えば伊勢神宮なんてすごいわけですが(なんか空気自体が違う感じ!)、香取神宮もなかなかのものです。



で、歩くこと数分で、社殿付近に到着。まずはお清めしましょう。



なんか気が引き締まりますね。この感覚、なんかすきなんです。

で、社殿に入ろうとするのですが・・・



社殿(上の写真では、門の奥)は、あいにく修理工事中で網がかぶされています。
でも、ちゃんと神事は行われていて、僕も二礼二拍手一礼で参拝。
なお、鹿島神宮のご祭神は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。「天照大神のご神勅を奉じて国家建設の基を開かれ国土開拓の大業を果たされた建国の大功臣」(香取神宮のご由緒書から)とのことです。歴史学的にはただの伝説で研究の対象にならないのかもしれませんが、過去にあった何かの事実(又は実在の人物?)がこのような神様の存在として記憶に語り継がれているんじゃないか、それならば一体何があったのか、と想像するだけで気持ちがわくわくしてしまいます。

それにしても、ここは成田空港からも更に東の利根川沿いの水郷地帯。
なんでこのようなところに、非常に古い、それも「神宮」と呼ばれるほどの格式の高い神社が存在するのか(ちなみに、この地域はもう1つの「神宮」である鹿島神宮もそれほど遠くないところにあります。)、と思うにつけ、1500年から2000年ほど前のこの地域とは一体どのような場所であったのか、という疑問が湧いてきてしまいます。これこそ古代史のミステリー!

・・・なんか、中高生の頃の僕が戻ってきたような感じだな。
古墳やそれにまつわる日本古代史にどっぷり浸かって、将来は橿原考古学研究所に行きたいとすら思っていたあの頃の。

ともあれ、この地域、今もなお豊かな水郷地帯。この写真のような。



米を作り、その土地で信仰されている神にささげる…その営みは形こそいくらかは変わっていても、本質は同じなんだろうな、と思います。

八百万の神のまします国に戻ってきたんだな。僕は。


2013年5月19日日曜日

なんちゃってリア充

facebookユーザの中には、自分がリア充であることを頑張って見せようと見栄を張る人もいるとかいないとか。
それをやっても逆に虚しいだけなんとちゃうん、と思ったりするわけですが、まあ、それはその人なりの事情があるのでしょうから、これ以上詮索しますまい。

でも、類友というのか、僕を含めた古い友達まわりはこれを逆手にとってやろうと思う奴もいるわけで、なんちゃってリア充的写真をfacebookに上げたりするわけです。だからと言って面白いわけでも何でもないんだけど。

ともあれ、先週はまあいろいろと仕事関係で気分がもやもやすることが多く、テンションはかなりダウン気味でした。そのせいか、木曜日は実際体調を少し崩してしまったり。
で、こうなると、何をするにもめんどくさい状態になってしまいがちです。それではいかん、という気持ちもあり、また、少し車を動かして海を見に行きたいという衝動もあり、午前中にジムに行ったあと自宅に戻って一人で焼きそばを作って食べて(小鴨はロンドンで花に目覚めて今は花屋でバイトをしてます。で、5月はずっと週末はバイトです。)、新婚さんいらっしゃい(うーん、この30年変わらぬ日曜の昼下がりだ!)が終わりかけたところで逗子に向けて出発!自宅から1時間ちょっと車を飛ばして海辺の某所に到着。

で、ある喫茶店で480円のアイスコーヒーを注文した後、おもむろに広げたのはタイ語の勉強資料!初心者のくせにちょっとめんどくさい資料を読むことにチャレンジしているので、予習をせねばなりません。
まあ、僕自身が普段取り扱っている分野の事項でもあるし、一応いろんな日本語の資料から内容的には概要はわかっているのですが、これをタイ語の記載内容そのままに理解するということとは全く別の問題。片っ端から辞書(でもね、タイ日辞典はあまりいいのがなくて、今一番よく使っているのはタイ漢辞典。これ、半端なくすごい!!)を引きまくって見ても、今ひとつ僕が知っているその箇所の内容と一致しないのです。文法構造自体はベトナム語に似ているはず(語彙は悲しいくらいに違いすぎるけど)なのに・・・。

というわけで、480円のコーヒー一杯で2時間ちょっと粘り、でもあまり読み進められず(まあ仕方ないけど)、来た道をまた戻ってきたのでした。

一見リア充に思われそうな「海辺の街のカフェでの午後」。実際はなかなかの苦行なのでした。それでも、久しぶりに海を見られたことは気分は良かったですけどね!


2013年4月6日土曜日

本当に、お久しぶり。from東京 復活の巻

さてさて、ドバイからのブログを書いて以来何か月振りでしょうか!
あれが8月の下旬だったから、7か月半振りですね。

ブログってのは一旦書かなくなると、なんかめんどくさいというか、日常の別のことに気を取られてしまってついつい後回しになりがちですよね。そうやってこのブログを消滅させるのもなんか癪なので、きっと誰も見ていないとは思うけど、再開することにします。

そうだな、日本に戻ってきてからの僕は、帰国翌日に家を探して契約し(ま、事前にある程度根回ししていたわけではありますが)、オフィスに戻ってなし崩し的に仕事に巻き込まれ、留学で得たものの裏で失った(仕事上の)ものの大きさに打ちのめされそうになりながらも新機軸を模索するようになり・・・という具合でなんとかここまでやってきました。
それにしても、7年間日本での生活の基盤がなかったということは、つまりその間に普通の人なら持っているべきものを全く持っていなかったということを意味するわけで(それに7年前は独身、今は既婚者!)、完全私費留学帰りのおサイフには至って厳しい出費があまたありました。それこそ家具や家電から始まり、最後はクルマまで買ってしまいました(まあ、クルマはおまけのようなものですが。)。

帰国してしばらくは、日本で生活することそれ自体に違和感があって、一時帰国的な気分から抜け出せない状態が続きました。生活のすべてが日本語だけで処理できてしまうことについてもなんだか変な感じがしてなりませんでした。最近かな、ようやくそんな違和感が薄れてきたのは。

ともあれ、これからも(留学時代のような頻度はないと思いますが)折に触れて書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします!