2012年8月21日火曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その2)のはずが・・・

いや、留学の最後は心置きなく完全フリーの時間を過ごすつもりだったのに、なんか職場への正式復帰日以前から、というよりは帰国翌日から(=家すらなくそれを探し出す日から)なし崩し的に仕事やその他の雑務が入ってきていて、それのことや、復帰前に処理すべき諸々の事項に関連する雑務を処理しているうちにこんな時間(今はドバイ時間の2時前)になってしまいました。

一体何やねん、と嘆きたくなりますが…。

ほんとはいろいろと今日の出来事や雑感を書きたかったのですが、時間も時間なので、概略を書いておきます。

朝起床。朝食をとる。
11時頃、ブルジュ・カリファの横のショッピング・モールに行ってみる。噂にたがわずでかいし、世界のブランドは一通りそろっている。

15時前に戻り、メールを見てブルーに。

15時半頃、食事もしていなかったので、なんちゃらクラブのアフタヌーンティーを食べる。でも、次の予定までの時間が短く、まさにgrabという言葉が似合う優雅さのなさ。

16時半、砂漠サファリツアーに出発。トヨタのランドクルーザーが大活躍!いや、その過酷なオフロードツーリングは中途半端なジェットコースターよりも面白い。食事も悪くなく、ベリーダンスのおねーちゃんの豊満だけど鍛えぬいたお腹にセクシーさよりもむしろ男前を感じる。砂漠で見る満点の星は申し分なし。久しぶりに見た天の川。ちゃんと視認できた南斗六星。夏の大三角が天頂に輝き、アラビア語由来の星の名前をアラブで見るという小粋さにちょっとうっとり。

22時ホテル戻り。ロンドンで買って砂漠サファリに履いていってしまった新品のスエードの靴に油染みを発見、小鴨に怒られまくる。それでも「俺の金で買うたんじゃ」と逆切れしつつ(でも心で半泣きになりつつ)やけくそででかいバスタブに湯を張って入浴。FTを読み始めるも、先に手をぬらしてしまっていたがために新聞がぶよぶよになる。

入浴後、コーヒーを飲みながらメールベースでの各種雑務を処理。現在に至る。

今日はこのくらいにしておきますが、最後に一言。
砂漠からの帰り、ドバイの街並みが近づいてくると、その高層ビル群は、本当に砂漠に立ち上る蜃気楼のようで、幻想的ですらありました。
でも、こういった繁栄は、もしかしたら本当に蜃気楼のようなものなのではないか、仮に30年後にここを立ち寄ってもまだこのような繁栄を謳歌し続けているのだろうか、と思わずにはいられませんでした。
いや、それはドバイに限った話ではないのですが、急速な発展というのは、どこかもろさのようなものを感じずにはいられないのです。それは、単なる嫉妬なのでしょうか、それとも本質なのでしょうか?

うーん、眠い、寝るぞ!

2012年8月20日月曜日

留学の終わりはアラビアン・ナイト(その1)

ちょうど24時間前、僕らはロンドンを後にしました。
ヒースローでは、エミレーツ航空の今まで経験したことがないほどの手荷物重量の厳しさにやられてしまい、空港で更に荷物を捨てたり、見送りに来てくれたE嬢夫妻にあげたりと大騒ぎだったのですが、とにもかくにもドバイ行きEK004便に乗り込みました。

EK004便はかの総二階建てのエアバスA380。でも、機内はいくつかの区画(Zone)に分かれていて、1つのZone自体はそんなに大きい印象を与えないのですが、それでも、飛行機が加速を始めて離陸をする時のゆったりした感じ(というか「よっこらしょ」という感じは、ここ2年ヨーロッパでの移動でお世話になっていたエアバスの短通路型の飛行機の必死にギュイ~ンと上昇する感覚とは全く違います。たまにゃこんな飛行機も悪くないな、と思ったわけです。

でも、機内では、なぜか寝ることが出来ず、そうだな、1時間半ほどうとうとしたくらいかな。
飛行機は、ロンドン→パリの北→ブリュッセル→プラハの近く→アナトリア半島→バグダッド→バスラと飛び、朝の6時半、ドバイに到着。7時間弱のフライトなので、ちょうど日本からシンガポールに行く距離のようなものです。そう考えればイギリスと中東、かなり近いですよね。意外とびっくり。

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さて、今回ドバイに寄ったのは、たまたま日本に買える片道切符が一番安かったのがドバイ経由のエミレーツ便だったことに加え、ただ乗換えだけじゃ面白くないのでストップオーバーをしてみようという、全くの偶然の産物です。それでも、留学の最後はちょっとゴージャスに決めようと思い、思い切って5つ星のホテルを取りました(ま、ドバイにゃ7つ星もありますけどね。ちなみに、その宿泊代を今回の飛行機の料金にプラスしても、ロンドン―東京直行便片道二人分の料金よりも安かったはず。)。その名もラッフルズ・ドバイ。シンガポール・スリングで有名なシンガポールのあのホテルのドバイ支店です。
以前シンガポールに行った時、ラッフルズ(のおみやげ物屋)に寄ったのですが、その風格を目の当たりにして、「いつかはこのホテルに見合う自分になりたい」と思ったものでした。もちろん経済力も含めてね。
それから数年。決してそのような風格に見合うだけの自分になったとはいえないのですが、英国での生活を経て、また、物理的にも少し齢を取り、加えて、シンガポールのそれよりも宿泊料金が安かったこともあり、一度このホテルに泊まってみよう、ということにしたわけです。で、予約は、僕が論文やら試験やらでばたばたしたこともあり、小鴨が手配しました(もちろん料金については僕の決裁事項でね。)。

…で、僕らがグランド・フロアに入ると、どうも小鴨が手配したそれはなんちゃらクラブとかいうエグゼクティブ向けのものだったらしく、丁重に10階に通されると、寝不足で疲れた顔をしている二人にはそれはそれは丁寧なチェックイン手続+専従のバトラーによる部屋の説明がありました。ヨーロッパでは、B&B的旅行をし続けてきた我々にとってはややお尻がむずがゆくなるような丁寧さと快適さではありましたが、こういう雰囲気の場数を踏むこともまた人生において必要だ、なんてことを言い合う貧乏性の二人なのでした。
それでも、英語が少しは出来るようになった甲斐は、こういった場所でも感じることができます。というのも、相手の英語での応対にこちらもそれなりに自然なコミュニケーションができるという「安心感」が、こういうハイソなシチュエーションでも決して怖気づかない度胸のようなものを与えてくれたような気がするから。

でもね、ホテルも含め「高級」であるってのは、案外不自由だな、って思いました。それは、こんな話。

夕方外出して夕食を食べようと思い、1階のコンシェルジュに「どこかいい店はないか」と聞いたのです。これは、僕らがヨーロッパで得た経験の1つで、宿の人に近所の安くてうまい店を聞くと、彼らが紹介するそれらは余り間違いがなかったのです。というわけで、そうすることが習慣になっていたのです。
果たして、ラッフルズのコンシェルジュはいろいろと店の名前を挙げてくれたのですが、いずれも高級感+いい雰囲気の店ばっかりで、僕らが求めているような店ではありません。なので、僕は、「僕らが一番重要なのは味であって、雰囲気や高級感はあまり重要視していない。そういったレストランでお勧めのところはないか」と聞いたら、コンシェルジュのガブリエルさん(おそらく本名はジブリールさんなんでしょうね。)は困った表情を浮かべ、

「当ホテルは5つ星ホテルでございますので、お客様にご紹介するべきレストランも相応のものとならざるを得ないのです」

なんてことを言うのです。ほんとはガブさんにだって自分のお気に入りの店とか絶対あるはずなのに。ま、こんなリクエストをする客などはまずいないかもしれないのだけど。

で、結局ガブさんが勧めてくれたある別の5つ星ホテルの最上階っぽいところにあるレストランに行ったのですが、そのホテル自体上海にもあるアメリカ系ホテルチェーンで、レストランの雰囲気は上海のそのホテルの56階か何かにあるイタリア料理屋のような雰囲気と変わりません。加えて食事はブッフェスタイル。味は決してまずいわけではないのですが、僕らが今までヨーロッパ旅行で経験した「感動」からははるかに遠いものでした。うん、これならどこでもあるよね、って。

ちなみに、そのホテルには、ラッフルズのベルボーイが手配してくれたハイヤー(メータータクシーじゃないんですよ!)で向かうという、日本でもしたことがない贅沢さ。これも貧乏性の二人にはお尻がむず痒くなる所業ですが、まあ、今回くらいバブリーでもいいじゃんと互いを慰めます。でも、この運ちゃん自体はなかなか気さくな人で、そのホテルの近くにある市場を指してこんなことを言ったのです。

「これは魚市場だよ。カタール辺りからのお客にどこかうまいところはないか、と聞かれたら、俺はよくここを紹介してるよ。ここでは魚を買ってどう料理するかを指示して食べることができるんだ♪」

とのたまうではありませんか! 運ちゃんも英語がやや怪しいので、僕らの質問の趣旨を聞き間違えているかもしれないのですが、もし運ちゃんの言うことが正しければ、我々の求めているものはむしろそういうものであったわけで…。

で、(コストパフォーマンスを含めて)不満の残る夕食を終えてその周りの下町っぽいところをふらふらした後ホテルに帰ったのですが、タクシーがなかなか捕まらなかったこともあり、最近出来たばっかりでピカピカの、でも客がいなくておそらく赤字必至の(でもそんなのこの国では関係ないんでしょうね。)地下鉄に乗りホテルに戻りました。でも、この種のホテルに泊まる客なんてそもそも公共交通機関など使わないんでしょう。そういえば、チェックインのときも、「そういえばこの近くにも鉄道の駅がありますよね。それで行けば安くなるんじゃないですか?」と僕が言ったら応対していたホテルの人が「あんた、そんなのに乗るの?」って感じでびっくりしたような顔をして、「乗り換えなどもあったりして面倒なので、タクシーの方が便利ですよ。」と言ったのが印象的でした。ともあれ、全身に汗かいてホテルに戻ってくると、クーラーがしっかり効いたロビーではみんな涼しげな顔で歓談しています。豪華かつ居心地のよい部屋に戻ると、ふんだんに使い放題の真水のホットシャワーで汗を流し…。

今日に限って言えば、ドバイの印象は、どこか「伸び行く中国の最先端都市」を髣髴とさせるようなものでした。そしてふと思わずにはいられなかったこと。


「豊かさ」とは何だろう?

…この都市であと48時間ほど考えてみようと思います。

2012年8月19日日曜日

ロンドン最後の夜

ほんと、ものすごく間隔が空いてしまいました。
この間何をしていたかを要約すると、
・5月の末に試験が終わった。
・6月の初旬にスペイン(バルセロナ&グラナダ)に1週間ほど旅行し、ガウディの建築群とアルハンブラ宮殿とすばらしきスペイン料理に感動。
・スペインから戻ってきてからは論文をひたすら書き続ける。当初はメインでない論点でもたつきまくり、その後も遅々として進まない状態が続き、7月頭で3500語/15000語。その後もとにかく調べて書いてを繰り返し、昼と夜とが逆転しながら7月26日にとりあえず形を作る。但し2000語オーバー。その後は削除しながら推敲を繰り返すが、直せども直せども誤りが見つかり半狂乱に。
・論文の一方で、とある新しい言語の学習を始めたが、論文が忙しくなりすぎて1か月でギブアップ(これはこれからの継続案件となります。)。
・8月2日に論文提出を予定し、かつ、一応の形が出来上がったように見受けられたものの、今一度形式面のチェックをする必要があると思い、もともと予定していた8月3日から8日までのローマ・リスボン旅行に論文も連れて行く。結局、昼は観光、夜は論文推敲となったのだが、貫徹1回、超深夜帯睡眠複数回と、仕事顔負けの状態に。それでも出てくるわ出てくるわのミステイク。
・ヘロヘロになりながら8日にロンドン戻り。その夜も4時頃まで格闘。翌朝もまだ基本的な部分でのミステイクが発見されたりしながらも、とりあえず全部見たということで製本→押し付けるようにして提出。
・提出したその足でグリニッジに行って、オリンピック馬術のドレッサージュ決勝を観戦。すっかり腕を日焼けする。
・翌10日は、ロンドンにやってきた職場の同僚とカーディフにフットボール男子3位決定戦を観戦。君が代を心を込めて歌い応援に臨んだものの見事な敗戦。周囲にはこれだけのために日本からやってきたマジもののサポーターたちがいて、「日本代表のために命を賭けている人たち」が本当にいることを改めて確認した。弾丸ツアーだったので、ロンドンには深夜2時戻り。
・11日からはスイスのE嬢夫妻が我々の見送りのために来英。続けて12日には台湾のC嬢夫妻(新婚旅行!)が来英。以後、6人が一つ屋根の下すごすことに。
・そうは言っても引越しの準備をしなければならず、こちらもあたふた。
・そのくせ2度目のオペラ座の怪人などを見てしまったりする。
・そのくせ15-16日、みんなでボーンマスに行って語学学校の先生やスタッフと会ったりして、その上1泊したりする。
・17日にフラットをクリーニング業者に明け渡し、我々はリッチモンドのフラットに移動。リンゴの木のある庭の風情は申し分ないが、前日寝冷えした僕は激しい下痢に悩まされる。
・18日、元のフラットを正式にチェックアウト。お世話になった日本人の美容師のところで最後のヘアカットをし、リッチモンドに戻ってみんなで夕食をして今に至る。

うーん、こう並べてみても本当にいろいろなことがありました。でも、やることが多すぎてブログを書く気力がなかったのでした(まあ、フェイスブックには時折書き込んでいましたけどね。)。

でも、2年の留学も、これが本当に最後の夜となりました。
明日の夕方、僕たちはロンドンを発ち、ドバイでストップオーバーして、23日に成田着です。

最後の1週間は、E嬢・C嬢夫妻と一緒でなかなかしみじみとロンドンの最後を味わう時間はありません(今もありません)が、それでも、今日は精一杯最後のロンドンを目に焼き付けようと、美容院からリッチモンドに戻る途中、ホルボーンで下車して大学の辺りなどを少しふらつきました。確かに自分はこのロンドンの街に足跡を残したのだと、自らの足元を確かめつつ。

それにしても、この2年間の留学は、僕たちにとても大きいものを残してくれたように思います。
もう、それは「体で感じるもの」であって、なかなか言葉では言い尽くせません。
ただ1つ言えることは、今がイギリスからアジアに戻るちょうどよい潮時だということ。そうでなければ、ロンドンを本当に離れたくなくなってしまいそうで。

来る前のイギリスに対する僕のイメージは、「老いた大国」で、大英帝国の遺産を食い潰しつづけている国、というものでした。そして、それはある一面では正しいとも今でも思います。
でも、イギリスはそれと同時に、「常に新しいものを生み出そうとする、ビート感のある国」であるということも感じずにはいられません。特にロンドンは。この国、意外に(?)クリエイティブなのです。そういったイギリスの奥深さに魅力を感じずにはいられない生活でした。

そして、自分の生き方についても、いろいろ考えることも多かったかな。そして、得られた結論は、「やっぱり僕には『攻める人生』しかないのだろうな」ということでした。40も近くなれば、人間往々にして守りに入るのが普通ですし、僕自身も今回の留学までが自分の人生の「インプット期間」であって、後は自分のある環境の中でそれを守る人生を送るべきだと考えていました。

…でも、それは、僕には当てはまらなかったようです。

どうも、この留学は、何かの終わりではなく、これからの始まりのための出発点(ないしは準備作業)のようなものだったようでした。
これからも僕は、やっぱり自分の可能性を求めてただただ積極果敢に攻めていけるだけ攻めるしかないようです。これに関しては、決して楽な人生ではないだろうな、と思いつつも、それしか道がないのだと、もう覚悟は決めました。

ずっと間隔が空いた分、思ったことの3割も書けていませんが、それでもかなりの長文になってしまいました。
明日の朝は荷物を再整理して、空港に行って、友人たちと別れを交わすことになります。

ロンドン最後の夜。
横で既に眠りに落ちている小鴨の顔を見ながら、改めてこの留学の成功を、ささやかに、でも、確信を持ってここに宣言いたしましょう。

ありがとう、イギリス。
また会おう、ロンドン。