ミサ・パンジェ・リングァといえば、少しヨーロッパのルネサンス期の音楽をかじったことのある方(といってもそれ自体が相当ニッチなわけですが)なら誰でも知っているといっても過言ではない、ジョスカン・デ・プレの傑作です。
僕も確か大学1年の夏合宿のある夜に先輩からウォークマンで聴かせてもらったと記憶していますが、Kyrieの本当に最初のフレーズ(おもむろに入ってきたカウンターテナーが上昇音階をたどっていく所)でその美しさにいきなり鳥肌が立つような衝撃をうけ、その後のChriste eleisonの部分での緊張感を伴った音の重なりに完全にノックアウトされました。ま、後者の「緊張感」は、聴かせてもらったパンジェ・リングァがかのドミニク・ヴィス率いるクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのもので、ヴィスのあのカウンターテナーの音がよりそれを増幅させたのかもしれませんが。
ともあれ、パンジェ・リングァというのは、どのルネサンス・ポリフォニーのミサ曲よりも高貴なもので、その意味で「禁断の曲」であるかのような感覚が僕たちの中にあったような気がします(もっとも、東京の男声合唱界の重鎮の一人にまつわる「遠慮」のようなものもあったとも聞いていますが、真偽のほどはわかりません。)。
で、僕は、ステージで歌えないのなら、せめてスコアが手に入ればなあ、と思い続けていたのですが、さりとてまじめに探したこともなく、なんとなくそのまま卒業してしまい、その後は仕事をし、結婚をし、中国やら英国やらに住み、合唱はといえば上海で少し復活したもののその後また封印している・・・といった状態でスコアのことなどすっかり忘れてすごしてきたわけです。
…ところが、その間(約20年弱)の期間のネットの進歩というのは実にありがたいもので、いまやYouTubeで「スコア付パンジェ・リングァ」が聴けるじゃありませんか!それも、その音はかつて僕に強烈なパンチを浴びせてくれたクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのものに間違いありません。ひとまずKyrie とGloria分のURLを紹介しますね。
で、今晩は、これに夢中になってしまったのでした。やっぱりスコアを見ながら各パートの音を聞いていると、いろいろな発見があり、ただなんとなく聞くよりは断然面白いものです。「あ、あそこはあんな動きをしていたんだ」とか、「このパートとこのパートがこんな掛け合いをしていたんだ」とかね。
特にCredoの"Pleni sunt coeli..."からのカウンターとアルト(といってもカウンターの1つ下の男声実声の一番高いパートのことね。)の掛け合いの最後のgloria tuaの部分など、パート間で異なる拍子で歌われていたことなど、(既に知っている人からは「いまさら何を」と思われるかもしれませんが、)僕にとっては楽しい「発見」であるとともに、一度は歌ってみたいなあ、と思わせるには十分でした。幸いなことに(?)僕は上記でいうアルトかカウンターをやっていたので、(巧拙を別にすれば)どちらでも対応できると思うけど、どちらかといえばアルトをやってみたい(ちょっと職人的なところに惹かれる)と思ったのでした。
…そう、音楽、って、甘美なんだよね、僕にとって。今の僕にはもったいないくらいに。
先日、僕の期の前後数期くらいの人が、OB合唱団のステージを1つ拝借してトマス=タリスのエレミア哀歌を歌うので、参加しないかというメールがありました。タリスのエレミアといえば、僕が大学1年の時の定期演奏会のメインの曲で、自分のパート(Tenor1)なら全曲(第1部及び第2部の両方!)を今でもほとんど暗譜で歌え、かつ、だいぶ前にこのブログでも書いたように、雨宿りに入ったボーンマスのカトリック教会で一人歌ったりした曲なのです。当然、心が動かないわけがありません。送られてきたスコアをダウンロードしてプリントアウトしてみれば、懐かしい音符が飛び交っていて、それとともに、あの頃のいろんな甘美な思い出があふれかえってきました。
でも、そんな甘美さをどこか拒絶する自分もあるのです。なんか、その世界に戻ることが「怖い」と感じるこの感覚…。そして、その感覚が僕の中で意外と大きくて、すぐに「参加します!」というメールが出せずにいます。
僕は、大学を卒業して以来、常に自分自身に変革を与えようとしていて、その意味で過去を振り返らず「現実を生きる」ことに邁進してきたと思います。ただ、もしかしたらそれをやや徹底しすぎたのかな…。過去を決して否定はしないけど、それに立ち返ることは今の自分を否定することになると潜在的に思っているのだろうか?
甘美な過去からの「誘い」は、意外に苦しい。
それでも、YouTubeでついついパンジェ・リングァやエレミア哀歌をヘビロテしている自分がここにいるのでした…。
僕も確か大学1年の夏合宿のある夜に先輩からウォークマンで聴かせてもらったと記憶していますが、Kyrieの本当に最初のフレーズ(おもむろに入ってきたカウンターテナーが上昇音階をたどっていく所)でその美しさにいきなり鳥肌が立つような衝撃をうけ、その後のChriste eleisonの部分での緊張感を伴った音の重なりに完全にノックアウトされました。ま、後者の「緊張感」は、聴かせてもらったパンジェ・リングァがかのドミニク・ヴィス率いるクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのもので、ヴィスのあのカウンターテナーの音がよりそれを増幅させたのかもしれませんが。
ともあれ、パンジェ・リングァというのは、どのルネサンス・ポリフォニーのミサ曲よりも高貴なもので、その意味で「禁断の曲」であるかのような感覚が僕たちの中にあったような気がします(もっとも、東京の男声合唱界の重鎮の一人にまつわる「遠慮」のようなものもあったとも聞いていますが、真偽のほどはわかりません。)。
で、僕は、ステージで歌えないのなら、せめてスコアが手に入ればなあ、と思い続けていたのですが、さりとてまじめに探したこともなく、なんとなくそのまま卒業してしまい、その後は仕事をし、結婚をし、中国やら英国やらに住み、合唱はといえば上海で少し復活したもののその後また封印している・・・といった状態でスコアのことなどすっかり忘れてすごしてきたわけです。
…ところが、その間(約20年弱)の期間のネットの進歩というのは実にありがたいもので、いまやYouTubeで「スコア付パンジェ・リングァ」が聴けるじゃありませんか!それも、その音はかつて僕に強烈なパンチを浴びせてくれたクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのものに間違いありません。ひとまずKyrie とGloria分のURLを紹介しますね。
で、今晩は、これに夢中になってしまったのでした。やっぱりスコアを見ながら各パートの音を聞いていると、いろいろな発見があり、ただなんとなく聞くよりは断然面白いものです。「あ、あそこはあんな動きをしていたんだ」とか、「このパートとこのパートがこんな掛け合いをしていたんだ」とかね。
特にCredoの"Pleni sunt coeli..."からのカウンターとアルト(といってもカウンターの1つ下の男声実声の一番高いパートのことね。)の掛け合いの最後のgloria tuaの部分など、パート間で異なる拍子で歌われていたことなど、(既に知っている人からは「いまさら何を」と思われるかもしれませんが、)僕にとっては楽しい「発見」であるとともに、一度は歌ってみたいなあ、と思わせるには十分でした。幸いなことに(?)僕は上記でいうアルトかカウンターをやっていたので、(巧拙を別にすれば)どちらでも対応できると思うけど、どちらかといえばアルトをやってみたい(ちょっと職人的なところに惹かれる)と思ったのでした。
…そう、音楽、って、甘美なんだよね、僕にとって。今の僕にはもったいないくらいに。
先日、僕の期の前後数期くらいの人が、OB合唱団のステージを1つ拝借してトマス=タリスのエレミア哀歌を歌うので、参加しないかというメールがありました。タリスのエレミアといえば、僕が大学1年の時の定期演奏会のメインの曲で、自分のパート(Tenor1)なら全曲(第1部及び第2部の両方!)を今でもほとんど暗譜で歌え、かつ、だいぶ前にこのブログでも書いたように、雨宿りに入ったボーンマスのカトリック教会で一人歌ったりした曲なのです。当然、心が動かないわけがありません。送られてきたスコアをダウンロードしてプリントアウトしてみれば、懐かしい音符が飛び交っていて、それとともに、あの頃のいろんな甘美な思い出があふれかえってきました。
でも、そんな甘美さをどこか拒絶する自分もあるのです。なんか、その世界に戻ることが「怖い」と感じるこの感覚…。そして、その感覚が僕の中で意外と大きくて、すぐに「参加します!」というメールが出せずにいます。
僕は、大学を卒業して以来、常に自分自身に変革を与えようとしていて、その意味で過去を振り返らず「現実を生きる」ことに邁進してきたと思います。ただ、もしかしたらそれをやや徹底しすぎたのかな…。過去を決して否定はしないけど、それに立ち返ることは今の自分を否定することになると潜在的に思っているのだろうか?
甘美な過去からの「誘い」は、意外に苦しい。
それでも、YouTubeでついついパンジェ・リングァやエレミア哀歌をヘビロテしている自分がここにいるのでした…。